Terence Riley / Postmodernism in modernism

MoMA建築部門のチーフ・キュレーターを今年3月まで務めたTerence Rileyの講演。
タイトルはPostmodernism in modernism。どこか懐かしい響きをもつタイトルだが、彼のこれまでのMoMAのキャリアを振り返る、そんな意味合いも感じさせる。
GSDで今学期スタジオを教えている彼をちょくちょく見かけることができる。いつもは学生の机を移動しながら個別に批評をして回るのだが、この日は午後から夕方の講演直前までずっとスタジオの一隅でラップトップを凝視して発表するスライドの準備に集中していた。

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morphosis/ Thom Mayne lacture at MIT

代理投稿pallaです。
例によって大量のスライド。今回は154枚もの画像が送られてきました。厳選するのも面倒なので全部載せます。よーわからんのもたくさん混じってますので、後日miyaちゃんのレポートを期待して待ちましょう。

Hi,
Good guy palla !
This slide are pics of the lecture “Working Progress.” Talk by Thom Mayne, architect, Morphosis, Santa Monica, CA. He pop uped lots of images like a machine gun…as if it’s an animation movie of his way of thinking of architecture and cities through his vital career. Basically, in my point of view, he introduced his way of ‘morphosis‘ of his works chronologically categolized by the three principles : 1) Urbanized fragments 2) Augmented landscape 3) Emerging organizations.

Morphosis

Recently, rather than congested design operations, he is going to create single operations which generate derivative and divergent elements on his projects–probably, conceptually like algorithmic architecture reflecting micro environments. Though I couldn’t see the concrete detail of his new methodology, the visual results were very interesting.
Why don’t you just click on “start” and see them?

gsd-exhibit

代理投稿のpallaです。
なんかわからんが大量に画像が届きました。
後日、miya氏のフォローが入る予定です。
まずはご覧ください。(矢印ボタンクリックで次の画像に進みます)

Hi, this is Miya and thankx Palla for your good introduction!
This is the new public exhiition at GSD by young Spanish architects Mansilla + Tuñon, titled “Playgrounds“. It is open during January 30 – March 19, 2006, approximately the same term at the MoMA’s exhibition “On Site” where they also exhibit their work.
In contrast to that MoMA’s exhibition, they fully unfold their recent thoughts in these continuous portable boxes. Let’s just click on “Start” and try playing.

ミネアポリス「アートルネサンス」

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ミネアポリスへ飛ぶ。
ミネアポリスは「アメリカの冷蔵庫」とも言われる位置にあり、ボストン以上に厳しい冬を迎える。だからそこを訪ねるには涼しいこの季節が一番いい。北欧系の白人が目立ち、まだ9月はじめというのに、街の人は長袖を着て当たり前で、中には皮のジャケットをはおっている人までいる。

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ミネアポリスは「アートルネサンス」と称して2006年までに5つの主要な文化施設のオープンを予定している。その中にはGuthrie Theater (Jean Nouvel) 、Public Library (Ceaser Perri) Walker Art Center (Herzog & de Meuron) が含まれる。

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「放散」進化のアイデア

―――この記事は、FOAの記事に付けたわけわからんpallaのコメントに対し、miyaが寄せた返信です。大胆な異種格闘技。強引に建築へのオチにもっていく危険性は承知の上で、ひとつの試論としてお楽しみください。


FOAによれば、この系統図は生物進化の系統図に着想を得て作られたという。彼ら自身が語るように、これまで取り組んできた作品を系統に分類していったとき、見えざる系統に新しい形態的可能性がありうるというのは興味深い。つまり彼らが言うところの「タイプ」—学校、住宅、工場といった固定化された類型から逸脱し、モノとプロトタイプの関係性を再定義するという契機をはらむ。ではどうやってそうした系統の分類から異種混合は可能となるのか。これについては僕の手元には彼らから答えらしいものが見当たらないので、FOAが参照した生物進化を踏まえて、ひとまずごく大雑把に考えてみようと思う。

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ディスクリートする環境/テクノロジー

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あけましておめでとー。再び代理投稿のpallaです。今年もmiya氏にはエンタテナーとしてがんばってもらいましょー。以下はmiya氏による記事です。さー楽しんでコメントせよ!
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かくして自然と人工のはっきりした対立はなくなり、その境界線はあいまいになっている。もっとも際立ったものは数学だろう。もっとも洗練された科学とはいまや、自然を再生することである。人工と自然はきわめて近いものとなる。かつては人工と自然は対立し、その間には明確なヒエラルキーがあった。すべての事物はどの程度自然に近く、どの程度人工的かを計測することが容易にできた.たとえば目の前にあるテーブルはスチールでなく木製であればより自然に近いものを意味した。チャップリンのモダンタイムズのシアトリカルな機械システムに替わる。だが今日、天然物にきわめて近い物理的特性をもつ化合物やコンピュータを駆使したネットワークの環境はテクノロジーが自然にディスクリート(拡散)していく状況をはっきりと示している.我々の生活において、何がテクノロジーで何がテクノロジーでないかは相対的なものでしかない。テクノロジーはかつてのように環境から独立したオブジェクトでなく、テクノロジカル・ランドスケープともいうべき環境にきわめて近いものとなっていく.逆に言えば環境はテクノロジーの産物となっていく。環境全体がシュミレーションなのだ。
これは近代的な建築家像の死を意味するかもしれないし、建築家の再生を意味するかもしれない。オブジェクトのデザインを追求する建築家のアイデンティティは相対的に弱まり、さまざまなネットワークのなかでアイデンティティを変動させながらデザインとメディア、メッセージ、コミュニケーションをむすびつけていくことになるだろう。エンジニア像は近代の技術革命とともに生まれたがテクノロジーの変容とともに立場を変え始めてきた。エンジニアがテクノロジーとのインターフェイスを通して柔軟に立場を変えていくように、建築家も必然的に柔軟に定義をかえていくことになる。テクノロジーが環境化した今日、我々は何をシェアし、どこでどうコミュニケーションするのかという問題の再定義を迫られている。このとき、建築家の意義が再び問われることになるだろう。

スーパー・バーガー

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miya氏はNYでにゅーいやーということでpallaが代理投稿です。(従って後に改訂する可能性大でしょう)みなんさんもっと積極的にコメント入れるべし。
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セシル・バーモンドもピーター・ライスに劣らず論説家だ。彼は自然現象の解釈にしばしばみられる複数回答性をエンジニアリングに導入し、ダイナミックな形態へのアプローチを打ち立てる。これはきわめて建築家のアプローチに近い。
informal/ cecil balmond 20050104-rem-1.jpg
このとき問題とされるのは、もしバーモンドの議論に従うとすれば、なぜ建築家がエンジニアを必要とするか(あるいはその逆もまた)ということ、そして何を建築家とエンジニアは共有するのかということだろう。彼のプロセスには、スタンフォード・クウィンターが建築について論題とするカルテジアン幾何学からある種のカオス的幾何学への移行がある。ここでは自然を新たな科学的視点によって再定義するという目論見があり、自然はもはや因習的な法則によって成り立たず、自己組織的法則に傾倒する。建築家とエンジニアは自然法則を司る一般的な通則よりも、個々のプロジェクトにおけるダイナミズムを捕らえようとする。再びクウィンターによれば、建築はもはや技術の表象でなく自然のダイナミズムを表象する。

bycicle-dechamp
big mac

かつてエンジニアは自然と格闘し制覇する主体だったが、この10年間のテクノロジーの飛躍とともに大きく変貌を遂げた。かつてテクノロジーは魅力的な客体だった。ル・コルビュジェのように、テクノロジーは魅力的な自然から自立したオブジェクトをわれわれにもたらすことによって近代化を推進させた。しかし今日、テクノロジーのリアリティは大きく変化した。テクノロジーがオブジェクトを極限まで肥大化させ、たとえばメガストラクチャーを開発した後、テクノロジーの主題は物質性を失い、それぞれの部材相互を結ぶコネクター、あるいはネットワークに移ったように。この意味でインターネットは今日のテクノロジーの定義に欠かせない存在といえる。
我々が慣れ親しんだマテリアルもまた、テクノロジーによる異種混合によって絶えまない合成がくりかえされ、それがどんな物質なのかを我々は即座に答えることができない。さまざまな合成化合物の重合によって新しい物理的特性をもつ素材が開発される。こうして我々はつねに化合物の積層した世界の中にいる。
かくしてテクノロジーは「自転車のカテドラル」からマクドナルドのような「スーパーバーガーのカテドラル」に変容してきた。かつてテクノロジーの知とは、ばらばらの事物を組織しある特定の機能を作動させることにあった。いわゆるそれが効率というものだった。だが今日テクノロジーのリアリティとは、コンピュータがそうであるように、文化や構造などの文脈のレイヤー(層)が重なり合っているといえる。それぞれのレイヤーは相互に作用しあう。たとえばコンピュータはハードウェアとソフトウェアの任意の組み合わせによって機能し、それぞれの組み合わせに応じて固有の機能を作動する。こうした状態はいわばマクドナルドのように、肉とサラダ、パンが幾重にも重なり合った「スーパーバーガー」の状態こそ今日のコンピュータが導くテクノロジーのリアリティをいいあらわしている。
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数学と感性

再びpallaです。横からおじゃまいたします。ダイヤグラムの話題をうけて蛇足をばっ。
数学のフラクタル、複雑系といった話と人の創作活動とのリンクが、そのことについて、ひとつの面白い見解をもたらしてくれるかもしれない。創作するときの判断基準となる美的感覚?エレガンス?問題意識に対する直感?といった至極あいまいなものが、実はなんらかの数学的な旋律をもっている可能性が高いという話。

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数学がフラクタル、複雑系という世界に突入しているのは、コンピューターの(特にPC)のおかげというのもあるだろうけど、その世界を「見よう」としたひとが登場したことも大きい。たとえばフラクタル図像は、予測不能としかいえないある意味ランダムな挙動を示す、数学的に扱うには厄介な式において、ある任意の係数を当てはめたときに偶然出来上がった図像であり、そのとき各係数は、たとえばPCに描かせた軌跡が、なんだか気持ちいいと人が判断した時点でFixされる。それはその時点では偶然に発見された何の根拠もない任意の値でしかない。数学者は数学の描く軌跡(実際にはPCが描く図像)を絵画のように鑑賞し始めた。そうしてコレクションされた図像により、任意に思われたその数値がある値に収束していくように見えることを発見する。それが数学的旋律を持つことが明らかになってきたのだ。とすると逆の方向からも攻めることが可能になる。たとえばその応用としてデータ圧縮技術がある。それはDNAの解読や人工知能の可能性に展開していく。しかしこれは完全な複製を作り出すことを目標としたものではない(当然できない)。人間の知性が複製をそれらしく感じれるかどうかが判断基準となるのだ。
こういう流れでいくと、この話は個々人の内面にこそ隠された鍵があるはずだとして、それを探る方向に行きかねないんだろうけど、創作活動している実感として、まったく逆方向の印象が私にはある。ひたすら無数の偶然に左右されていて個人が何らかの判断を下している感覚にはならないのだ。その偶然は何らかの外的な必然性なんだという気分だけが創作のテンションを保っている。
推測するに、前提として、主体の内面世界に唯一の鍵なんてものは存在しないとしたほうがいいのかもしれない。代わりに外の世界にどんどんリンクしていく柔軟性といったものががそれを支えている。唯一の鍵は存在しないので完全なモノは出来上がらないが、リンクが張り巡らされた状態がなんとなく目指す創造物を浮かび上がらせることは可能なはずだ。

about miya

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recent sistuation

 写真の下の男がmiya/miyajimaである。上の淑女はthetaである。二人は20世紀以降の建築技術史の展望を議論している。 (のちのpallaの説明によれば、miyajimaがthetaのお気に入りのおもちゃに夢中で返さないのでthetaが早く替われとせがんでいたとのことらしい)
 miyajimaは名古屋で生まれた。大学、大学院と建築を学び、卒業後大阪の某所で建築の設計を行い、時々コンペや実作で賞をいただいた。その傍ら建築・美術批評家の大島哲蔵氏やprof.F氏が組織する建築私塾「豊和塾」に惨禍し、この建築道場で酒が強くなったという。その後懐の広い出版社や先輩建築家の方々に見守られて時おり建築・アートの評論を掲載させていただき、またシンポジウム司会の末席を務めさせていただいている。
 2004年から職を離れ、アメリカのハーバード大学のGSD(Graduate School of Design)という大学院でprofessional programの建築学生の身分になっている。2002年に暴飲暴旅を共にした大島氏が急逝したのがきっかけでと本人は尤もらしく語るが、実のところは新しく暴飲の友を探しているのかもしれない。miyajimaは旅そして酒好きで、 勤勉な学生の誰もが彼に影響されないように部屋をシェアするのを恐れているという。現在、ノーベル博士を受賞されたというウィリアム教授の離れに下宿している。その離れとは、もともとカー・ガレージだったことをmiyajimaは知らない。
最近、教授がかの「少年ジャンプ」に特集されたことを知らされ、教授夫人からその英訳をせかされている。
下は彼の近況である。