Stefano Boeri Lecture

Le Corbusier and Pyongyang
都市計画家・建築家のStefano Boeri(ステファーノ・ボエリ)がGSDでレクチャーを開いた。またその翌日、彼に個人的に会うことができた。
現在、ミラノに事務所をかまえる彼はDOMUS誌の編集長に就任し、これまでにないトピックや斬新なグラフィックデザインを発信している。
それに先立つ1990年代以降、世界のグローバル化が都市生活にもたらす影響に着目した彼は、EU内外でさまざまな都市リサーチワークを行ってきた。

Seattle Library- archives in a new media space

2003年のリサーチBorder Deviceではイスラエルがパレスチナを包囲する隔離壁(see reference)と周辺に点在するイスラエル人入植地に、イスラエル人とパレスチナ人を同伴して実際に往来し、命がけでその状況をレポートしたことは、当時「やさしさ」に満ち溢れた日本の建築ブームにいた自分には衝撃的だった。
刻々と変貌し続けるEUのなかで生まれつつある、新しい都市の状況を調査しレポートした展示会USE – UNCERTAIN STATES OF EUROPEを行い、RemのMutationsにもその一部が掲載されたことから、日本でも注目を集めたことも記憶に新しい。
これまではその独創的なリサーチワークからアカデミックな人としての印象が強かったが、最近ではミラノをはじめとするイタリア各都市で大規模な再開発計画に取り組んだり、住宅などの建築プロジェクトにも実績を重ねている。

Rwanda. Soda Cooker : a sample of Seedspaces

今回の講演で彼は、これまで主な研究対象としていたEUという枠をさらに拡げ、グローバルとローカルのせめぎあいの中で、世界各地にどんな新しい状況が生まれているのかを示した。それらをいくつかのタイプにいったん類型化したうえで、これまでの認識ではくくりきれない空間や生活をもつ人たちのアイデンティティをどうとらえるのかについて、彼自身の考えを語った。
今日のわれわれを取り巻くGlobalizationを、もっとも極端かつ簡潔に反映しているのは、Google Earthだろうと彼は言う。われわれは地球全体の姿を見ることができると同時に、TVチャンネルをかき回すかのように、瞬時に都市から都市へと微視的にさまざまな位相で眺めることもできる。彼のスライドも衛星写真とそれぞれの都市に生きる人たちの姿を同時に見せながら、そのはざまに彼はコメントを介入していく。
Airport: Nonspace
今日われわれの環境には、GlobalとLocalの葛藤をとおして3つの新しい空間タイプがあるという。Nonplaces, Superplaces, Seedplacesがそれである。
——Nonplacesの典型的な一例は空港である。いったんパスポートの審査を終えてゲートをくぐれば、そこにはある種のボーダーレスな場所がある。その特権的な場所に免税店などの巨大資本が介入している。グローバル資本は立地する地域の状況に合わせて、流動的に模様替えし、ローカルな場を植民地化していく。そこは大きな制度によって微妙に変化を与えられつつ、切れ目なく全体がコントロールされた空間といえる。結果として、どの空港も多少の差こそあれ、無国籍なたたずまいを帯びている。一方でそこは資本の力と最新のインフラによって極端に活性化された公共的空間とも言える。
google earth --superplaces
—–Superplacesは強力なシンボルに対するリアクションを持つ空間で、メディアの力がローカルな場に作用する。結果としてそこは、global / localという2つの力を向かい合わせ、その場の活動を増幅させるコンデンサーとして機能する。
BilbaoのGuggenheim美術館が都市の状況を一変させたことから、世界の各都市の行政がそれに追従したように、World-classの建築家の建物はいまや、単にローカルな環境を反映したシンボルでなく、むしろ超越的なものとしてローカルに対峙する。またそれらは自らメディア化することで、Jerusalem嘆きの壁や、メッカ、天安門のように実際に立地する場をこえて、グローバルな範囲で影響力をもつといえる。

Tianmen Square : Superspaces

こうした状況のなかで、はたしてglobalizationはlocalizationと融合するのか、それともむしろ支配的になるのか、あるいは分裂するのか、さまざまな問いをわれわれは投げかけることができる。はっきりしていることは、globalizationを拒絶したLocalizationはことはほとんど不可能で空疎だという。
—–What is local nowadays?—–
さまざまなネットワークとおして流動化にさらされる、それぞれの場所のアイデンティティを、Globalizationとの葛藤の中でどう再定義することができるのか。そこに建築の重要なテーマがある。local な建築家はよりGlobalに接続するscientificなアプローチをとることになるという。
from jail to residence in Buenos Aires : Seedspaces
—–Seedspacesはglobalとlocalの2つが交配することで生まれた新しい空間や生活様式の芽生えのことである。そこに彼は新しい空間形式の可能性を感じているようだ。Domusで彼が特集してきた場所も、まさにこうした空間の可能性を例示するものである。
これまでDomusやCasabella誌で彼が取り組んできたことは、端的にいってReduce to distance、縮小される距離だったという。そこで都市や建築はどのように人々の生活のなかでリアリティをもつのか。つまり人々がどのように環境を解釈しなおし、生活に取り込んでいくのか。
この状況のなかで、建築雑誌がいまなすべきことは、これまでのように、新しいデザインを利用してユートピアを描き人々をあおることでなく、新しい状況の解釈を構築すること、新しく芽生えてきたリアリティを解釈するための新しいストーリーの構築が必要だという。
その例として彼はさまざまな例をあげた。それらはすでに彼の手によって雑誌に紹介されている。

a transparent concrete inovated by a young Hungarian : Seedspaces

透明コンクリートの発明家。HungaryのBudapestから100kmほど離れたとても小さな村に住みながら、ハイテク技術に頼らず、自分でさまざまな若い専門家とネットワークを組んで伝統的技術を転用し、透明なコンクリートを発明した。こうしたローカルな場を見直すことは重要だろうと彼は指摘する。
paris13区のアパートがChinatown化し、parkingや居住エリアがmarketや店舗などに転用された例。住むための単純な箱型空間というオリジナルのジェネティック・コードは、より流動的な多元的な空間に書き換えられている。異なる生活様式をもつ人たちが既存の空間に潜在的な可能性を見出した一例である。
Buenos Airesにある監獄が住居に転用された例。ここでも建物本来の象徴的意味は完全に入れ替えられている。
cairo. Living among the dead : Seedspaces
Cairoの墓地が20,000人以上の人によって住居に転用されている例。ここで注目すべきはそれが今もなお墓地として機能していることであり、また同時に住居が分子のようにそこに介入している両義的で多様な環境である。
アフリカ・Rwandaのsoda cookerの例。アメリカ・フランス資本によって導入された技術が内戦によって途絶え、結果としてローカルの技術に翻訳されて人々に流通している例。「海賊版」が本家に取って代わった例である。建築が弱い微細だが数多くのさまざまな行動や新しい生活様式を誘発できるかどうかは彼の注目するテーマだろう。

Pyongyang hotel
Pyongyang and hilbelseimer

そのしめくくりとして、グローバルとローカルの葛藤を今もっとも端的に示しているのはPyongyangだろう。国体を維持するために”total lack of freedom”な状況の中で、アイコニックな近代建築の作品を連想させる建築群が都市に取り残されている。それらは、まちがいなく今後この国家の政治的な進展とともに避けがたく変容を受けるだろう。
なかでもこの都市でもっとも高いピラミッド型のホテルに着目した彼は、それが現在工事をストップし廃墟になっていることから、今後それがこの都市の象徴的な縮図として、工事を再開した機会がやってきたとき、どのように変容して完成させるのかに強い関心を寄せたという。そこで雑誌でさまざまなproposalを集めている。
Seedspacesでは体系と解釈の戦いが際限なくその領域で繰り返され、上書きされ続ける。いかなるものも消去されることはなく、長期的な構造はしばしば微弱だがより可視的な事物に隠される。こうした現代の社会の切断面でリアルな身体性を受け止めるのが建築そして都市であり、その可能性(mosakiさん)をみせることが建築の課題なのだといえるだろう。
そして現代の領域は、空間と社会のさまざまなレベルでの緊張のはざまで具体的な形をもつ。その強い信念のもとで、彼は世界中を駆け回りながら究極の自由をプレゼンする建築を探し続けている。
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翌日、HdeMのリサーチのメンバーともに、彼に個人的に面会した。彼に尋ねたのはリサーチからデザインの実践に、どのように関係づけているのかということだった。
—We how to connect our research with design practice.
Stefano suggested us research could be autonomous to access to the reality. And researcher should be cynic to observe the potentials in the situations.
Jerusalem

「Stefano Boeri Lecture」への5件のフィードバック

  1. global/localの話でいつもすっきりしない思いをします。
    一例をあげれば、あらゆる場所を占める支配と被支配関係をどう解釈していくのかというものがあると思う。
    話題の中で、その問題が決して抜け落ちている訳ではないのでしょうが、第一義として論じないことで、取り残して先に進めることも可能な解釈を生むことはないのでしょうか。
    たとえば、あがっている事例は、極度の貧困、あるいは政体の破綻が生み出した特異なケースだと思うが、その空間の特異性を解釈するのにその悲惨な状況はオブラートにつつまれて(しっかり書いてあっても私たちが意図的に無視している)いるように思える。
    経済発展が著しい上海の真新しいビルの地下空間には、信じられない人数の貧困層がひしめいて暮らしているとの話を先日伝え聞きました。一見きれいになった街の深部でそんな状況がある。九龍の二の舞どころかさらに悲惨な状況がそこにあるんじゃないかと恐ろしくなりました。
    でも、私たちは九龍城の写真や生活する人の様子、空間構成を示す資料を、刺激的なものとして眺めることができるのです。

  2. たしかにモラルの問題はいつもこの話題には出てくるね。
    現在の彼の活動には、ある特定の領域に設計範囲を決めて、そこに線をひく従前のマスタープランでは拾いきれない数多くの現象が続発して、それにどう取り組んでいくべきかというコンテクストが背景にあると思う。
    今回彼がサンプリングしたケースは、乱暴にまとめると、ある「不足」から生まれた可能性(逆に過剰な飽和に「満足」する転換もいまや大問題だけどね)。観察解釈する側がその「不足」を視線からはずしてしまう結果、現実から乖離した「偶像」を模造してしまうかもしれないという危惧は感じた。その偶像はいったい誰のためのものなのか。都市計画の講師やプランナーから、そうした現実の背景をなす構造をどうとらえるのか、さらなる説明を求める一幕もあった。ふだん結果としての形よりも、それを成り立たせるための構造に取り組んでいる彼らにとっては当然そこに関心を寄せると思う。それこそ彼が問題提起したいことだったようだけど。
    彼がリサーチをデザイン実践に直結せず自律させたほうがいいと僕らに翌日話したのは、アプリオリに現実にバイアスをかけて空間を解釈し裁断することへの批判だったと思う。その可能性を見つけるには懐疑的(cynic)に状況にいどむこと、彼はそう話してもいた。
    だから肯定とも否定とも捕らえきれない状況を描写する。そこでさまざまな立場、視点にインタビューや具体的なフィールドワークを重ね、そこに建築要素がどのように再解釈されてその状況から生活を再構築しているのか、具体的にそれぞれ個別のストーリーを通して示す。こうして今、新しく芽生えている状況を解釈するための新しい方法が必要だということなんだろう。彼のリサーチは現実を解釈し計画に架橋する「ポートレート」だったように思う。
    繰り返しになるけど、今回の彼が見せた事例を通してみると、既存の環境を自律的につくり変えていく個々が帯同して大きなうねりを生み出す、というケースに可能性を見出すという共通項があった。でもそうした非確定性は、確定性をもつ計画と関係をどんな結びうるのか。偶発的に生まれてくる出来事に、計画家が何を誘引し、選択取捨の判断をするのはどこまでいっても本当に思い上がりなのかな。むしろ、いつもその葛藤のなかから道筋を求められるのが計画家なのではないかと思う。そこに自由の意味とそれを負う責任が問われると思う。現象と計画という意思のその温度差はよく見ておきたい。
    世界を小さな身体のスケールから大きな世界を考えるこの人はやっぱり面白い。グローバルという大時代的なネーミングって、たしかに一瞬のけぞるどね・・・。

  3. 倫理的な話は、持ち出すのは簡単。答えるのはすごく大変なことですよね〜。みや氏の返信の内容は私にとってはすごくよかったです。
    責任を負う自覚がやはり重要なことに思えます。
    あらたなヴィジョンとの関係を結ぶためのリサーチではなく、自分の作り上げたヴィジョンを常に批評する姿勢を模索するためにリサーチがあるような気がします。それは結果としてそこに反射する自分自身を見ようとすることなんじゃないか。
    新たなヴィジョンを作り出す方法はわかりませんが、偶発的にできあがった自分のヴィジョンに対して常に検証していくことは可能だと思います。その作業が次に自分が関わるヴィジョンへとつながっていく。その繰り返し、それが責任を果たしていく行為なのかなぁと思うのです。
    ちょっと、話題がそれてしまったかな。。。

  4. globalとlocalの3つの場はとても面白い話しですね。
    自分の成したことへの批評というのは出来そうで出来ないものですが、
    それは大事なことですね。

  5. 自分の作り上げたヴィジョンを常に批評するために分析的なリサーチがあるというのは面白いね。
    そういう側面もあると思う。ジャックが「HdeMの建築はアーティスティックな芸術作品だと皆思うかもしれないが、われわれは非常に分析的なアプローチをとっている」と言っていた。とはいっても、彼らのデザインすべてがリサーチや分析で決定されるはずもない。デザインにはそこから独立したところが当然ある。時には矛盾すら感じることも。その分析と形をうみだす想像力との関係について改めて聞いたことがある。ピエールは"be contradictory"と言っていた。クラーク博士を思い起こすそのコメント、そして説明は彼の姿勢をほのめかして興味深かった。contradictoryには矛盾や議論という意味合いがある。つまり建築家は一方にリサーチの客観的な見方、そして同時にイメージ・想像力をもう一方の手に持っている。互いが批評しあうことから具体的なヴィジョンの手がかりを取ること、つまりアナリティカルな姿勢とは、あらゆるバイアスをいったん排除した上で、たがいの緊張した関係から、innovate できるところを探し、潜在するデザインの鍵をみつけることといえるかもしれない。
    そして時に、その潜在力ゆえに、デザインというのは、本来の合理的な目的をこえて、過剰に増殖していく本質をもつものかもしれない。彼らの最近作を見てそんな風に想うこともある。

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