On Urban Portrait

awitzerland-an urban portrait

先週、今週とめまぐるしくEU、とくにスイス関係の建築家の話を聞くことが多い。ここBostonは人口58万程度の都市。にもかかわらず、ここにアメリカに限らず南米、ヨーロッパ、アジアといった方々からいろいろな人が来る。
先週金曜は、ETHのStudio Baselで教える建築家のEmanuel ChristとChristoph Gantenbeinの二人組と木曜彼らのレクチャーの翌日に面会。1月末にBasel(人口16万)で会って以来の再会になる。


木曜のレクチャーは例のswitzerlandで行ったETHのスイス・リサーチについて。アメリカではようやくそのリサーチをまとめた本Switzerland: An Urban Portraitが出版されることもあり、非常にタイムリーな話題である。90年代以降、国境をはじめとする境界や領域がはっきりと目に見えるものでなくなった。「Baselはコンパクトな都市に見えるが、実際はGermany、France、Swissの3つの国境をまたぐ巨大なMetropolitan Areaを形成している。しかもそれはEuropeのどまんなかだ。」とジャックが強調していたのを思い出す。financial serviceでは世界一の売り上げを誇るUBShead quarterはZurichとBaselにあり、世界に対する影響力を考えると、それもいささか説得力が出てくる。ともかく、その意志がこの本に貫かれている。今日、スイスの都市や農村の領域がどう変化しているのか。何が変化をもたらしているのか。見えにくくなった変化をひたすら地図に落とし込む作業だったとEmanuelは言う。ひとつの街のなかに、交通、通信、水流、植栽、歴史、言語圏、などのさまざまな指標で異なる広がりをもつ領域が重なり合う。水彩画のように透明感あるレイヤーの重なり合わせて、人為と自然が切れ目なく織り込まれたスイスの風景を美しい肖像画 (portrait)として描いている。
実はそれらはillustratorを駆使して、ほとんどハンド・メイドによって作られたと以前から聞いていた。その作業量を見事にやり遂げた実働部隊のETHのスタッフにはほんとうに敬意を表する。確かに彼らの技量がなければ、いくらデータを集めても、その絵画のような美しいパターンはなかなか描けないだろう。

once a swiss portrait

ところで実際の場所には、もっとランダムな要素がそこにはあるはずだろう。すべてのデータを集めてダイレクトに出力すれば、もっと違ったものになるだろう。つまり、そこに潜むパターンを人間の感性が直観的に読み取るには、事象を抽象化する人間の感性をさしはさむことが必要だったのだろう。画家のまなざしのように。
これはさまざまなデータから、半ば手書きのようなワークを通して想像力を積み上げて描かれたスイスの肖像画である。その結果、文字通り絵画的な美しいビジュアルとして実を結んでいる。ある状況を再構成して抽象化する、それはとても建築的なアプローチといえるだろう。
彼らは実作も最近忙しくなってきたようだ。Zurich駅前の博物館のコンペで入賞している。対面する公園に対して、zigzagに蛇行する線形の増築棟を配置し、入り組んだ部分に中庭的なスケール感のほどよい屋外スペースが生まれている。中国ではHdeMがマスタープランした公園施設の中でフォリーをデザインしている。ジャックにも一目置かれているようだ。
講演翌日の面談もざっくばらんにcanary islandsのリサーチについてアドバイスをもらう。Stefano boeriがリサーチをデザインから自律させて、現実をどう解釈するかということを勧めてくれたのに対し、彼らはもっとストレートに、リサーチとデザインをつなげようとする。自身のデザインのテーマをしぼりこみ、そこから自分のデザインを立証する事実をリサーチから集め、デザインにフィードバックするという、とても’正当’な意見である。リサーチに対する両者の見解の微妙なズレが、状況をどうやって理解するかという姿勢にある。
それは秩序が交錯するランダムネスをどう受け入れるかという態度の違いでもあるだろう。建築はある意味で環境を解釈し、環境を形づくるプレーヤーに脚本を与える。しかし一方で、それに抗い、そこから零れ落ちる微細なランダムネスをどうとらえるか。そこに、既存の支配的な秩序を別の秩序に組み替えるチャンスがあるともいえる。

Warhol Self prtrait

建築が環境を解釈しそれを再構成するものである限り、環境を読み取る解像度が上がれば、randomenessもある高度な秩序に取り込むことができ、そうした対立は解消されるかもしれない。だがその技術的解像度があがったとしても、別の次元でまたそれがくり返されるだろう。つまり技術は問題を操作する人間の判断力が最後には必要だ。しかし確実にその解像度は今、人の理解力をはるかに超えるところまで上がってきている。これをただ等閑視するのも難しい。その高解像度の姿を、どう判断すべきか、その答えを迫られている。それはかつて、写真が発明され都市の風景をとらえるメディアとして拡がっていった1世紀前とどこか似てもいる。人間はこうしたことから環境の読み取り方を絶えず変えてきたのだろう。
さてRandomnessをどこまでどう汲み取るかという問題は、アルゴリズムのワーキングでもたびたび議論されたことで、どの程度ランダムネスをスクリプトに入れるかによって、まったく違った結果(形)が生まれる。どんな形が生まれるのか、何度もトライしないと予想はつかない。ランダムネスはある純粋な形から何か別の形への移行を示す動的なものだといえる。そのなかから、ランダムネス自身がつくりだす世界の系が美しい形を描いて現われることがある。つまり少なくとも、ある形を結ぶには、要素の操作と開放、反復、逸脱の均衡から、形へオペレートする別の次元の、独自のセンスが必要になるだろう。