Twisted Hips

New Yorkでは二つの興味深い建築家の展示会が行われている。
Guggenheim

zaha's kitchen

ひとつはGuggenheim(グッゲンハイム)美術館のZaha Hadidの建築回顧展
この美術館独特の、らせんのスロープの展示空間に沿って、彼女が76年のディプロマから今日まで30年ほどの間に取り組んできたプロジェクトの模型やドローイングが圧倒的な物量で陳列されている。(写真はNY Timesを参照)観ている人は、大げさに言えば、建築とは一見思えない形と、やはりそれが建築として建てられることが意図されているというズレを、またそしてさまざまな試行錯誤が繰り返されているという事実を目の当たりにして、驚きをもって楽しんでいる様子。


特に最近の流体のような形をまとった一連のものは、いわゆる各部位の構成が見て取れる建築の模型というよりは、セクシーな彫刻的オブジェクトである。その中には建築もプロダクトデザインもまったく同じデザインボキャブラリーでつくられ、解説を読まない限りスケールも、またそれが何であるのかも判別するのが難しいものさえもある。
もちろん実際には、スケールの大きい建築になれば当然重力がかかる分だけ、建築自体の自重が大きくのしかかってくる。たとえば模型で10 cmのキャンティレバーも実物で10mとなれば、構造梁は重力に葛藤してきしみをあげる。その結果いやおうなしに構造、素材、プロセスにさまざまなヒエラルキーがうまれ、オブジェクトはどんなに「反建築」を装っても「建築」以上の何ものでもないものになっていく。3次元プリンターなどで高精度に作られた彼女の模型はそれをみごとにかき消している。だから完成した建築写真と会場の模型はまったく別物に見えるものもある。高度なテクノロジーを操って手作りの模型の臭みを脱臭したその模型、そして形態は、別の次元の抽象度・オーダーを獲得している。それは新しい技術を走らせる彼女の感性なしにはありえないコンパウンドだろう。

hadid

かつて建築家のマック・スコギンは、ある指名コンペでザハと競ったとき、プレゼンテーション会場で審査員はじめ関係者一同、ザハが持ちこんだ模型に目を奪われて、さて自分はどうこの場を切り抜けるかどきどきしたよと冗談交じりに語ったことがある。マックの心配にもおよばず、結果は別の建築家が賞をさらっていったというが、強烈で明快なパッケージを要請するクライアントに彼女の作品は十分応えている。そしてこうした建築に大きな変化をもたらした場所のポテンシャルの変化を無視することはできないだろう。だから今ザハを含め多くの建築家がsite analysisに着目することを強調する、ということなのだろう。悲しいかな、この資本経済の市場では上に上がれば上がるほど、いまや、普遍性は死語(アウトサイダーか反逆者)なのだ。
グッゲンハイム美術館はビルバオ美術館での商業的大成功を収めて以後、スター建築家を起用して世界各地に美術館の「支店」進出を計画してきた。グッゲンハイムが他の美術館に競合して採算を確保するには、複製不可能な強烈な個性をもつ建築家の才能が必要とされる。ザハもまたその一人であり、この企画はそのためのプロモーション戦略、と勘ぐりたくもなる。
とはいっても今回の展示はザハの当初の思惑とはいくぶん違っていると聞く。たしかに若干、展示物があふれかえって少々雑然としている。展示の仕方も従来の図面と模型をならべる建築展示会とほとんど同じ。そういう意味での目新しさはない。それでも会場そのものが本来もつ、流れるような空間が彼女の建築プロジェクトの内部の空間体験を連想させる。その意味でこのザハの展示と、鬼才ライトによってつくられたグッゲンハイムの空間の、2つの強烈な個性が幸運なめぐり合いをしているといえそうだ。
MoMA
MoMA
もうひとつはMoMAの一室をHerzog and de Meuronがインスタレーションをした特別展示。話は聞いていたが、特別展示といっても彼らの作品はひとつも展示されていない。ジャックが語るように、アート作品の展示空間そのものを彼らの作品とすることがもくろまれている。つまり展示空間を作り替えることでMoMAがこれまで培ってきたアート・コレクションとそれを鑑賞する人の間に介入することだといえる。ゆったりとした白い箱型の空間に、適度な距離を置いて互いの干渉をなるべく避ける形で、個々の作品と鑑賞者が対面する、あの鑑賞形式のこと・・・。
MoMAの中庭を見下ろす明るい廊下を通り抜けると、黒一色に塗り固められた部屋に入る。部屋に入るとまず目にとびこむのは鑑賞する人の様子。大勢の人が部屋に並ぶ長椅子に腰を下ろして、天井を見上げている。
天井にはモニターがグリッド上に吊り下げられ、さまざまな映画の決定的シーンを数分間隔で繰り返し映している。「地獄の黙示録」のギルゴア中佐ひきいるヘリコプター部隊が抵抗勢力に猛攻撃を加えるシーンが音もなく長椅子のカップルに光のシャワーを浴びせる。長椅子にはハガキ大の鏡がところどころに置かれている。これを手に天井を映して覗き込む人もいる。手鏡の映像がじっと覗き込む人の顔をぼんやり青白くともしている。

hand mirror

その部屋を取り囲む壁には横長に壁をざっくり切り込んだ2つのスリット開口がある。
横幅は数人が肩をならべられる程度のそれは、目線よりわずかに低い位置にある。腰をちょっとかがめてそれを覗き込む。すると開口の向こうには、もうひとつの部屋があることに気づく。床・壁・天井すべてが白く、均質な照明が影を極力なくしている。その明るい白い部屋の中には、さまざまなMoMAの美術作品がジャンル・様式をこえて、ぎっしりと床・壁・天井に陳列されている。どこかヨゼフ・ボイスのインスタレーションのように。
そして覗き方はデュシャンのEtant Donnesのように、といったらいいか。2つの開口周囲の壁にはテーパーがかかり、ひとつはわずかに上を、もうひとつは下に向かってわずかに広がり、向こう側の部屋への視線のアングルを決定している。人は開口を左右に移動したり、腰を上げたり下げたりして、なんとかその部屋の全貌を知ろうとするが、絞り込まれた開口にさえぎられて、その無人の部屋の全貌を一望することはついにできない。
普段、あかるい白い大きな空間で何のさえぎるものもなく鑑賞できた作品は、いまここで再び、何か違ったオーラのようなものをそのあかるい空間に醸し出す。それは手鏡に映った映像のように、視る人自身のちょっとした生理的欲望の反映にすぎないかもしれないが、この奇妙な身体運動を強いる鑑賞に人を没頭させている。この身体運動を通して、アートを視る人にエモーションが生まれている。
slit and the other room
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複製statement
2つの建築家の展示を同時に見たが、ザハの展示は非常にオーソドックスだが展示するオブジェと既存の空間の興味深い連続感、そしてHdeMには建築の複製を一切排除して鑑賞空間と鑑賞者の関係に対する切込み、という特徴を見た。
ふつう、建築家の展示は模型や図面、写真などのヴィジュアル・マテリアルを使って、その空間を占拠し、実際の建物が現しうる体験を再現しようとする。時には部屋全体を原寸大の「複製」模型にして、オリジナルの再現を試みることもよくある。しかし建築が特定の敷地に建つサイトスペフィックなものでありつつける以上は、現実の場所から引き剥がされたその複製物は、どんなにがんばっても実体験とのズレを暴露してしまう。

slit

それは建築だけに限った話でもない。たとえば絵画でも、表現された形と内容のズレは近代美術でも主要なテーマのひとつであり続けた。だから作家の中には、作品そのものから風景のような内容そのものよりも、形式そのものを自己言及的に表現の主題とする人たちも現れた。そこに複製自体が自律する糸口がみえてくる。
そうなれば作品そのものを一品生産的な場所からひきはがして(脱領域化して)、メディア化するすことで複製(展示)と実体の従属関係を乗り越えようとする人もいる。つまりそれぞれの会場で反復展開可能なステートメントやプロセスがそれを可能にする。そうすれば展示されたオブジェクトそれ自体を「建築」として宣言することも可能になる。

suit case study

マイケル・ヘイズが講義で、ディラー+スコフィディオの初期の展示作品Tourisms: suitCase Studies (1991) 、つまりギャラリーの天井から吊られたスーツ・ケースが整然と並ぶインスタレーションの写真を見せたことがある。それぞれのスーツ・ケースごとに観光スポットの公式非公式のデータをもとに批判的な”ケース”・スタディが表示されていた。
彼自身が肝いりで後押ししたこの展示作品のスライドを背にして、彼は「君たちはこれを建築と思うか?」とたずねた。そしてこれは建築なのだ・・・と慎重そうな表情で語った。たしかにそこには建築の基本的文法ともいえるべき床、壁、柱もない。しかしその作品が表す批判的ステートメントは「建築」なのだと。Paul Goldbergerもこう語る。
“it questions architecture but also celebrates the potential of architecture.”
何か建築の具体的な形式を発動させる前のイメージの表出が可能かもしれない。形式は内容に上書きされる。そのある種の自由、つまり表現にさしこまれるプンクトゥムのようなものが、ストゥディウムに逆流する限界を見たい衝動に駆られる。

「Twisted Hips」への2件のフィードバック

  1. 先日はばったりMOMAでお会いできて良かったです。ケンブリッジではなかなか忙しくてゆっくりする機会がもてなかったので。友人達も宮島さんにお会いできて喜んでいました。
    先日GUGGでPatrick Schumacher(Zaha’s Husband (sidekick?), Peter Eisenman, +moreのディスカッションがあったので言ってきました。Eisenmanが冗談半分で最近の学生は“どうやったらザッハをできるのか?“と質問してくるが答えられなくて困ると言っていました。その理由の一つとして彼女の作品は”close reading”ができないという点をあげて、最近の作品は若いスタッフが過去の作品を複製しているに過ぎないのではと。なかなか興味深いイベントでした。ところでGuggenheimのレクチャーホール行かれたことありますか。円形のプランをうまく使った空間でよかったです。
    またNYへいらした際にはぜひ連絡ください。

  2. ネットを使う状況からはずれて返信が遅れましたが、いやいやこちらこそですよ。
    ゆっくりするようでなかなか濃い時間をもらって感謝してます。
    どうやったらザハをできるのかとかのアイゼンマンに聞く方も聞くほうですが、もし本当にそれが実話なら、どうしたらアイゼンマンを出来るのかと聞かれなかったアイゼンマンの方もなんだか気の毒ですね(笑)。
    でもそこにclose readingといわしめるふたりのスタンスの違いが見え隠れするわけで、そのイベント、拝聴したかったですね。
    たしかに学校でもザハやFOAに本物並にそっくりのスタジオ作品がありましたが、ある程度まではデザインツールや技術をどう使いこなすかによっては、それを可能にするところはある。マイケル・ヘイズが「今ではCGなのか実物の写真なのか判別ついにくい建築作品が多勢になっている」と言ってたのは、彼はそれを頭ごなしに批判的に言ってるわけでもなく、そうしたヴァーチャルなものが今後何を導くのかに関心を持っているわけですね。またその裏を返せばCGでは表現しきれないものを実物表出するのは何か、という問題に立ち返りますね。
    もちろんそうした試行錯誤をしながら世俗的なミニマリズムなどにかわる新しい事物の関係や組成をもつ形を探すわけですね。
    そのプロセスの問題、つまりアイゼンマンのclose readingという話はその問題にどう立ち入っているのか興味をもてます。
    またどんなディスカションだったのか、内容などよろしければ教えてください。
    余談だけど、複製といえば、たしかにそういえば、guggのザハのインタビュー・ビデオで彼女の事務所の風景がロケされてたけど、スタッフ全員、黒い服を着て机に向かい、その背後の書類からすべて黒で反復統一されてましたね。その真ん中で大きなかけ声をかける女王。あれはロケのために特別にそうしたのかな。

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