ダイヤグラム

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僕の専攻するMArch2にはプロセミナーという授業が毎週ある。ここでは地元建築家のシルベッティが司会を務め、学生同士の議論を行う。普段は各自が一人30分くらいかけて入学以前に関わったプロジェクトをプレゼンし、議論を交わすのだが、今回は2人のゲストを招き、建築設計における“ダイヤグラム”の使用について、議論が交わされた。結論の見えにくい話題だったが、それだけ二人の建築家の立場の違いも浮き彫りにされて面白かった。
ゲストにはGSDで教鞭をとるロン・ウィッテスコット・コーヘン。ウィッテはここ10年、建築においてダイヤグラムが大きな影響を与えたことの重要性を指摘。コンピューターが製図版に替わると同時にダイヤグラムが建築の統辞法を大きく影響をあたえたと語る。90年代以降、これまでのゾーニングや空間単位といったトップダウンの機能主義的方法を解体し、それぞれのファクターをレイヤリングしたり、ピクセル化していく方法などのさまざまな試みがなされてきた。空間の配列を外科医手術して新しい建築体験を垣間見せるOMAやオランダの試みを振り返れば、たしかにそれはそうだといえる。さらに彼はダイヤグラムが不可欠でそのようなデータ操作としてのオペレーションの重要性を説く。
これに対してコーヘンが猛反発・・・


ダイヤグラムは計量可能な情報のみを扱えるもので、それだけで建築の記述・説明をし、そのようにスペクタクル化して空間の実存的な質そのものを置き去りにしている。そういった現在の状況は身体と空間の関係をヴァーチャルなものにしてしまう、と語る。ダイヤグラムは一見すると規定の建築形式に制限された行為や空間の配列を開放し、オープンエンドな建築空間を可能にするようにも見えるが、一方でその空間に立つ主体は、ダイヤグラムに記述された行為に束縛される。つまりそこには矛盾がある。ある主体において建築家が規定したダイヤグラムに合意した場合には、その空間は主体にうまく作用するが、それは真綿でくるむように主体を生暖かい予定調和のなかにとらえていくようなものである。これは今日の高度資本主義のなかで安息する私たち生活にもどこか通じている・・・。
コーヘンはダイヤグラムに対して、ドゥルーズ+ガタリを引用しながら空間と身体をより相互作用する自身の方法を提示する。さまざまな既存の空間カテゴリーからの脱領域化は、流れるような造型デザインをもって現れるかのようにみえる。彼の批判には強く共感を覚えたのだが、それでも彼の代案はまだダイヤグラムに内在する問題に正面から応えたものではない。それはF教授が以前アンソニー・ヴィドラーの著作に疑義を呈していたように、私たちはすでに完成した建築に対してそれが脱領域的とか定義不可能な流動的空間、云々と印象を語ることは許されても、肝心の脱領域とは一体何なのかを定義できない。(そもそもそれは定義を逃れるものなのだから)つまりそれを他者と共有できるように客観的に方法論化することができない。根本的にはチョームカつく、とかイケテルとかでは設計はできないのと同根である。
アメリカの大学では特にそうなのだが、プロジェクトのプレゼンテーションでは必ずダイヤグラムが必要とされる。短い説明の時間の中で空間の質までを説明するには及ばず、機能や空間の配列で評価が下されてしまう場合もある。大学においてはそれが顕著となる。問題なのは、その結果、似たようなデザインがいくつも生まれることだろう。ダイヤグラムはデザイナーのボトムアップにはある程度寄与するが、問題は当然のことながらそれでデザインはどうなんだということになる。ダイヤグラムそのものを疑って付き合わないと、ダイヤグラムはデザインを拘束してしまいかねない。抽象的なダイヤグラムの同語反復のみで建築は当然定義できるはずもない。そこに具体的な構造やマテリアル、ファブリケーションなどのファクターをどう絡み合わせ、それによる様々なフィードバックによっていかに問題をブレイクスルーさせるかにデザインの醍醐味があると思うのだが、なかなかそこまで話が進まない。
議論は建築の枠内に収まりきるものではなく、社会的文化的な領域まで広がっていく。結局時間切れとなったが、身体と空間の関係が確実に変りつつあることを考えさせる内容でもあった。建築は、空間を外部から限定する行為だといわれる。しかし私たちの生活の中では情報も意識も内外に入り組み、内部と外部はこれまでのように強固で安定したものではない。さまざまな行為を生み出すオープンエンドな場とはどのようにしたら可能だろうか?そしてまた、テロリズムや情報管理が進む世界の状況のなかで、自由そして多様性とは何かということが問われている。