数学と感性

再びpallaです。横からおじゃまいたします。ダイヤグラムの話題をうけて蛇足をばっ。
数学のフラクタル、複雑系といった話と人の創作活動とのリンクが、そのことについて、ひとつの面白い見解をもたらしてくれるかもしれない。創作するときの判断基準となる美的感覚?エレガンス?問題意識に対する直感?といった至極あいまいなものが、実はなんらかの数学的な旋律をもっている可能性が高いという話。

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数学がフラクタル、複雑系という世界に突入しているのは、コンピューターの(特にPC)のおかげというのもあるだろうけど、その世界を「見よう」としたひとが登場したことも大きい。たとえばフラクタル図像は、予測不能としかいえないある意味ランダムな挙動を示す、数学的に扱うには厄介な式において、ある任意の係数を当てはめたときに偶然出来上がった図像であり、そのとき各係数は、たとえばPCに描かせた軌跡が、なんだか気持ちいいと人が判断した時点でFixされる。それはその時点では偶然に発見された何の根拠もない任意の値でしかない。数学者は数学の描く軌跡(実際にはPCが描く図像)を絵画のように鑑賞し始めた。そうしてコレクションされた図像により、任意に思われたその数値がある値に収束していくように見えることを発見する。それが数学的旋律を持つことが明らかになってきたのだ。とすると逆の方向からも攻めることが可能になる。たとえばその応用としてデータ圧縮技術がある。それはDNAの解読や人工知能の可能性に展開していく。しかしこれは完全な複製を作り出すことを目標としたものではない(当然できない)。人間の知性が複製をそれらしく感じれるかどうかが判断基準となるのだ。
こういう流れでいくと、この話は個々人の内面にこそ隠された鍵があるはずだとして、それを探る方向に行きかねないんだろうけど、創作活動している実感として、まったく逆方向の印象が私にはある。ひたすら無数の偶然に左右されていて個人が何らかの判断を下している感覚にはならないのだ。その偶然は何らかの外的な必然性なんだという気分だけが創作のテンションを保っている。
推測するに、前提として、主体の内面世界に唯一の鍵なんてものは存在しないとしたほうがいいのかもしれない。代わりに外の世界にどんどんリンクしていく柔軟性といったものががそれを支えている。唯一の鍵は存在しないので完全なモノは出来上がらないが、リンクが張り巡らされた状態がなんとなく目指す創造物を浮かび上がらせることは可能なはずだ。

「数学と感性」への4件のフィードバック

  1. ひのさんのウェブ(hino.nu)の話題、おもしろいね。つまり建築デザインのコンセプトは、構想力のあるフィクショナルな主張だったが、その流れは現在後退し、建築がどのように解釈されるかが主調になっているということか。そのあたり、ひのさんの10+1の新ネタ、読んでみたいね。
    さてpalla, 偶然という次元は主体と客体の相互作用からうまれて、それがある口火をきるアイデアになったりする。実際、この話題を周囲の友人にも振ってみたが、多くが「こういう問題は事後的に論じることはできても、それをオペレートするにはまず手を動かしたほうがいい」と。これはよくあるシンプルな論理と経験の対峙ではないと思う。プロセスにはどこかこうした相互補完する箇所がある。無目的にオープンな主体からはなにもデザインは生まれない。そしてそこには作家の仮説が必要とされるのではないか。その仮説こそ、多様なsolutionから選ぶクライテリアとなる。しかしその時点では、それはトップダウン的なプロパガンダではない。事後的にそれをプロパガンダと呼ぶのは当然あるにせよ・・・解釈される建築と意味を発動する建築の差異・・・たとえばそれは、数あるウェブサイトの中でコミュニケートする状況を可能にするひとつなのだと思う。それがウェブサイトのように、根底的な性質として、トップダウンの一方通行的な性格の活字と違って相補的なコミュニケーションを可能にしている。
    さらに最後の一段落、さらにもっとそのリスキーな関係のなかでデザイナーはどう自身の創造性を見出せるのか、聞いてみたい。

  2. >作家の仮説が必要とされるのではないか。
    その仮説によって創造されるものが、「わたし」にとって不可視の存在であるからこそ仮説として有効に働くのではないでしょうか。「わたし」は「外在的必然性」=「他者」への予感(気づき)しか持ちようがない。
    >まず手を動かしたほうがいい
    というのは、まさにそのことを指してますよね。見えていないことを前提にせざる得ないところで、暗中模索の網の目の中に自らを投じるしか策はなさそうです。
    その中で主体はどう取捨選択しているのか?これは無数の偶然によって選択させられているというほうがよいのではないかと思います。たくさん経験するその選択の中に、何らかの旋律を感じることができるのであれば、それはひとつの「仮説」となり得る。
    ここでも言っておきたいのがそれはやはりあくまで「仮説」なのだということでしょう。完全な仮説というのはありえない。(あたりまえですね)
    そして問題提起するなら、その仮説は目に見える(文章化される)時点ではその主体に対する「批評」としかなりえないでしょう。「わたし」はその仮説にしたがって創造される「他者」を認識できない以上、それは「わたし」自身のそれを不可視にしている構造を浮き彫りにしていくしか、それに気づく方法はないからです。そのことを甘んじて受けいれ、いかに
    >解釈される建築と意味を発動する建築の差異
    に気づくことができるのかが問われているということではないでしょうか。

  3. 追記:
    ネットが芸術作品を作り出すことは可能だし、それは実感してます。面白いのはその創造者(作家)がネット上のドメインとしか言いようがなくなることでしょう。多元的に双方向に干渉され得るウェブサイトはその創造性をある個人に求めることを無意味にさせます。それがおもしろい。

  4. 個人の内在的クリエイティビティを相対的にするといえるかもしれないけれど、それをオペレートする創造性そしてそれを誘引する能力というものはあるのではないか。
    もうひとつ・・・多元的な現象を生み出すデザインということは、先日こちらのキネティック・アーキテクチャーのセミナーでも話題となったことでもある。今センサーとBASICを使って実際に建築模型を動かしたりもするのだけど、多様性を生み出すには、なるべくルールはシンプルで個々がシェアできるものがいい。それぞれの要素はルールに沿って独自に運動をするのだが、互いに関係を結ぶことで互いに運動をフィードバックしあう。AはBの運動によって変化した環境を感知して反応を起こし、それがまたさらに環境を変化させていく。それがCに影響をあたえる。こうして微細な個々の運動が環境全体を継続的に変化させていく。こうした環境のフィードバックは、あるルールを生み出す能力が要求されるとともに、そうした運動が描く軌跡や関係をいかに見極めるかという動的な美的センスが要求される。このあたり、スタティックな建築にはあまり要求されなかったことでもあるけど、いままさに取り組んでるところ。そうした相補的な個別性を与えるためのプログラムは、わが教授コスタス氏は’democratic’でなければいけないと説いている。そのあたりは、ウェブと共通しているともいえる。

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