ディスクリートする環境/テクノロジー

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あけましておめでとー。再び代理投稿のpallaです。今年もmiya氏にはエンタテナーとしてがんばってもらいましょー。以下はmiya氏による記事です。さー楽しんでコメントせよ!
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かくして自然と人工のはっきりした対立はなくなり、その境界線はあいまいになっている。もっとも際立ったものは数学だろう。もっとも洗練された科学とはいまや、自然を再生することである。人工と自然はきわめて近いものとなる。かつては人工と自然は対立し、その間には明確なヒエラルキーがあった。すべての事物はどの程度自然に近く、どの程度人工的かを計測することが容易にできた.たとえば目の前にあるテーブルはスチールでなく木製であればより自然に近いものを意味した。チャップリンのモダンタイムズのシアトリカルな機械システムに替わる。だが今日、天然物にきわめて近い物理的特性をもつ化合物やコンピュータを駆使したネットワークの環境はテクノロジーが自然にディスクリート(拡散)していく状況をはっきりと示している.我々の生活において、何がテクノロジーで何がテクノロジーでないかは相対的なものでしかない。テクノロジーはかつてのように環境から独立したオブジェクトでなく、テクノロジカル・ランドスケープともいうべき環境にきわめて近いものとなっていく.逆に言えば環境はテクノロジーの産物となっていく。環境全体がシュミレーションなのだ。
これは近代的な建築家像の死を意味するかもしれないし、建築家の再生を意味するかもしれない。オブジェクトのデザインを追求する建築家のアイデンティティは相対的に弱まり、さまざまなネットワークのなかでアイデンティティを変動させながらデザインとメディア、メッセージ、コミュニケーションをむすびつけていくことになるだろう。エンジニア像は近代の技術革命とともに生まれたがテクノロジーの変容とともに立場を変え始めてきた。エンジニアがテクノロジーとのインターフェイスを通して柔軟に立場を変えていくように、建築家も必然的に柔軟に定義をかえていくことになる。テクノロジーが環境化した今日、我々は何をシェアし、どこでどうコミュニケーションするのかという問題の再定義を迫られている。このとき、建築家の意義が再び問われることになるだろう。

「ディスクリートする環境/テクノロジー」への1件のフィードバック

  1. ”近代的な”建築家像という言葉の解釈の違いだ、という話なのかもしれないが、シフトを強いられたのはむしろここでいうエンジニアにあったのであり、基本的に他分野を横断せざる得ない建築家という存在は意義を強めているといった解釈も生まれるのではないだろうか。ゆえに外面的にはシフトしないようにみえているのではないか。
    >環境はテクノロジーの産物となっていく。
    スーパーバーガーという話もそうだがこれは悲惨で出口のない現実だと思う。環境は意図しない方向にいつでも変化する。温暖化も地球にとっては些細な出来事でありどうでもいいことなんだろうけどね。生命の存続は人知にゆだねられようとしている。

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