「放散」進化のアイデア

―――この記事は、FOAの記事に付けたわけわからんpallaのコメントに対し、miyaが寄せた返信です。大胆な異種格闘技。強引に建築へのオチにもっていく危険性は承知の上で、ひとつの試論としてお楽しみください。


FOAによれば、この系統図は生物進化の系統図に着想を得て作られたという。彼ら自身が語るように、これまで取り組んできた作品を系統に分類していったとき、見えざる系統に新しい形態的可能性がありうるというのは興味深い。つまり彼らが言うところの「タイプ」—学校、住宅、工場といった固定化された類型から逸脱し、モノとプロトタイプの関係性を再定義するという契機をはらむ。ではどうやってそうした系統の分類から異種混合は可能となるのか。これについては僕の手元には彼らから答えらしいものが見当たらないので、FOAが参照した生物進化を踏まえて、ひとまずごく大雑把に考えてみようと思う。


タイプとその系統分類の可能性について、生物学における新しい進化論の考えがその糸口になるかもしれない。
茂木和行『平行放散進化 -多様化の新しい原理』は、平行放散進化という概念とその鍵となるタイプ・スイッチングという仕組みについての興味深い概説だろう。要旨を引用しながら探ってみよう。

カンブリア紀の大爆発(5億年前)や昆虫の爆発的な多様化(3〜4億年前)、恐竜時代の終焉後に起きた哺乳類の多様化(6000万年前)など、進化史上では種が一気に多様化する現象がいくつも知られている。

「ダーウィンの進化論」では,この世の生物の進化は, 環境に適応した生物のみが生き残ることによって起こったとされている。建築論でもこういった進化論の考えをもとに異質なコンテクストを導入する場合や土地と建築の関係を考察するもののほとんどは、こうした環境の適応性との必然性を根拠においている。
ところが今日では、爆発的な多様化や限られた地域における種の密集という事実は、

ダーウィン流の自然淘汰の結果 とするよりも、タイプ・スイッチングなどによって、さまざまな形が一気に生み出され放散した、と考えたほうが合理的なのではないか

と考える機運がおきている。
おおまかにこれを『建築』にたとえるとすると、建築の形態を決定するのは環境条件、たとえば敷地形状の特異性や地理学的な形質によるものだという一般的な考えに対して、ごくニュートラルな敷地条件にこそ多様性の温床があるということになる。厳しい敷地条件では形態の選択肢は絞られてくるのは当然の理となるが、それは必ずしも必然ではない。同時に建築それ自体に内在する恒常的な形質の変化があるということになる。それは何をもって種、つまり建築とするかという再定義を常に促すものとなる。

・・・力ンブリア紀には分子レベルでの中立的な変異が非常に多い・・・この時期に自然淘汰圧がゆるみ、普通 なら有害で淘汰されてしまうような変異が中立となって生物の形態の多様化が促進されたのではないか・・・中立的変異の蓄積→形態の多様化、といったシナリオが、必ずしも自然淘汰の有無にかかわらず、進化のさまざまな局面 でかなり常態的に起きていることを示しているのではないか・・・

ゆえに、

「遺伝子にあらかじめ可能性として存在する多様性」が、何らかの理 由で出現していくのが種の多様化である・・・

という定義も可能になってくる。だが、最終的に作用するであろう強力な自然淘汰については、『フィンチの嘴(くちばし)』ジョナサン・ワイナーを例にあげ、

自然選択の力は非常に強力で、旱ばつなどの自然災害が頻繁に起これば、わずか100年で種は別 の種へと変わりうると計算される。彼らによると、遺伝子の組み換えは交雑によって起こり、環境に適応した雑種が新しい種へと進化していくという・・・
とはいえ・・・中立的なタイプ・スイッチングによって多様なくちばしがまず生まれ、自然選択によって生き残ったのが現在の多様な種である、との可能性も否定はできない。

とかわす。

「形態におけるみかけ上の連続性は、進化の連続性を示しているとは限らない」。 また「みかけの形態が似ていても、両者の分岐時期が新しいとは限らない」。つまるところ、これまでの種とされている区別は必ずしも系統を反映しない。ここで「種とは何か」との本質的な疑問へとたどり着く。

種はつまりここでの話題「タイプ」である。
ドゥルーズのリゾームのように現実の進化は、系統だったツリー状の非可逆的な運動でなく、ダーウィン的な自然選択やタイプ・スイッチングなどいくつもの要因が重なり合った複合的な大ドラマである、とするのが正解なのではないかといわれる。
もうひとつ、遺伝子レベルで多様性の鍵を握るイントロンについて。 大濱 武『イントロンに感染した真核生物のゲノム』 

タンパク質を作る情報をもつ遺伝子の部分は数%しかない。そのうえ,遺伝子の中にも,タンパク質を作るための情報をもたず,RNAに転写された後に切り捨てられる部分がある。それがイントロンだ。
groupIIイントロンは,特定の遺伝子に自己のコピーを組み込む能力をもっており,ここに多くの研究者が注目している。
groupIIイントロンは,ごく稀にではあるが種を越えて異種のオルガネラのゲノムにも転移できるらしい。
集団内(種内)の一匹が特定のgroupIIイントロンに感染すれば,接合で瞬く間に種全体に蔓延する。

つまり系統図や分類された形式を超えて技術や情報が地理学的制約を超えて系統をこえた連鎖性をもつことがある。系統化された種以外に、相互作用した「種」(雑種)が生成されるように。

deCOi  penthouse

昨晩MITのdECOiの個展+講演に行ってきた。彼の作品はCATIAを駆使した精巧なオブジェクトで、コンピューターなしには表現し難い造形である。その設計オペレーションをいつどうやって止めるのかという問いに対して彼はこう答えた。
「ひたすら線を引き続けると、ある瞬間にチーム全体がこれだと思う形が現れる。ひたすら描きつづけるとそれがわかる時が来る」
ここでは彼の『直観』がすべてに優先して決定的であることは間違いない。テクノロジーは自然にきわめて近いシュミラクルを生み出している。どこまでそうしたシュミラクルを作るのか。60年代のフライ・オットーやメタボリストは自然の造形を模倣するのがせいぜい限界だった。今となってはほほえましいことだが、たとえば微視的な細胞の構造をそのまま建築スケールの構造に拡大したりしていたのである。しかし今、自己生成するシステムを造形プロセスにおりこむことが取り組まれている。そのなかで、ある筋の話によると丹下の東京計画は都市生成のアセスメントをかけた場合、非常に合理的な解として評価されたらしい。
生物遺伝の仕組みのアナロジーから出発した「遺伝的プログラミング」という手法は、コンピュータによって、ある環境の中での生物をシュミレートする。その行為がどれだけ適当な行動であったかの基準をこちらで決めて、その生物が環境に適しているかを決定する。これを求めたい答えが現われるまで繰り返す。 しかしその答えがあらかじめわかっていない場合や、 なかなか答えが見つからない場合は途中で計算を打ち切らないと仕方ないという。そのためこのプロセスを何回まで繰り返して行なうかの基準を作っておき、 その基準を満たした時に計算を止めてそれまでに見つかった答えの中で一番良かったものを「準最適解」として表示する。 準最適解とは答えを求めたい問題の最も良い最適解ではなく、それに近い可能性をもった答えのことをいう。(http://www602.math.ryukoku.ac.jp/~shimooka/より)
dECOiの造形は高度な技術の粋を集め、流動的な形態の一つ一つのパーツに必然性をもつ自律的なオブジェクトとされる。彼の実現したプロジェクトのすべてがインテリアとペントハウスというのは象徴的である。コルビュジェのピロティが既成の文脈から離脱した存在だったように、コンテクストの重力から離陸した圧倒的な自由度の高い空間で彼はテクノロジーが何をもたらすのかを検証している。多様な選択肢の中で新しい種としての建築。コープ・ヒンメルブラウのペントハウス以上に彼は何かをもたらすことができるのか。
建築はファブの領域に多く頼らざるを得ない。彼の構造はやはりアラップに依頼し、その後の実際のファブリケーションはCATIAで立体分析した図面をもとにそれぞれをパネル化して製作している。CGと違ってCATIA上では直接ディテール図面の操作が可能である。それぞれの形状は全く異なるから、ジョイント部分や削り出しの部分が非常にデリケートになって職人の経験に頼らざるをえなくなる。テクノロジーが既成の生産システムをこえた未知の領域に踏み込んだとき、また新たな製作者の身体的な直観が必要となる。
ところでマイケル・ヘイズが授業でロッシのタイプについて、ロッシはタイプ論を作ったというよりも発見したと言っていた。タイプはある作家が作るものでなく、時間の推移の中で生成され潜んでいる。あのロッシの十字窓のように。

「「放散」進化のアイデア」への2件のフィードバック

  1. 久しぶり
    藤木です。
    知らんかったわ、、こんなんヤッテタンやね。
    まあ、元気に楽しんでる様子で、うらやましい。
    僕は最近、中国通いしてます。
    雲南省の北の方、チベットに近いあたりで調査やってます。
    ではまた。

  2. ご無沙汰。そちらも元気そうでなにより。藤木がロンドンにいた頃の生活とこちらの生活はだいぶ違うと思います。それでも相変わらずアート関係の展示はわりにマメに通っています。留学は自分を変身させる魔法などではなく、作家の言動や見たことない技術を見て自分が何が好きで(逆に何に興味がなく)何に向かって掘り下げるかを体験する意味ではいい機会だと思います。おそらくあっという間に時間は過ぎてしまうでしょうが。何かをひとつ掘り下げるよりも新しい情報のシャワーに身をゆだねるのもまた結構でしょうね。このあたりの選択は人それぞれです。
    ところで雲南省麗江、うらやましいですね。中国の大陸出身の友人の家に遊びに行きたいね。彼らの生活ぶりってどんなん?僕もまた旅に出たいですが、あと1年はここに居候。

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