デジタル・アーキテクト

昨日はGSD(建築、アーバンデザイン、ランドスケープ、ドクターコース)の留学生が一同に集まり顔見世となった。全学生数の1/3が留学生とのことで、一見国籍もさまざま。しかしカナダを除けば、EUからはギリシャやスペインなどの周縁から来た学生が目立つ。東欧は皆無。アジアでは韓国人が最も多く、次に台湾。日本は見たところ7人程度だった。中国も日本とほぼ同じくらいだが、建築よりもアーバンデザイン関係が多いようにうかがえた。各国の経済状況やアメリカとの関係を反映しているのだろう。シリアから来た建築コースの学生からいきなりCGのソフトは何を使うのか?と聞かれて戸惑ったが、実作も特にない中でCGの表現能力がなによりウェートを占めていくというのはいまどきの典型的な事象なのだろう。
隣のMITではコンピュータに傾倒する傾向はさらに強く、今度はそうしたデジタル・アーキテクトを集めて大規模なカンファレンスをする。講演者はデコイ、グレッグ・リン、NOX、アシンプート等、その分野ではおなじみの建築家のメンバー。スポンサーはベントレー(Micro Stationでおなじみ)。このMITイベントのサイトはここ
ただ、こうした傾向はひとつのトレンドで、PCを使ってにぎにぎしくやっているけれども、結局展覧会なんかで自給自足してスペクタクルを繰り返し、消費し尽くしたあとは何も残らないのないかもしれない。たしかにポンピドーセンター最上階のレストランはそうしたデザインの成功例といえるのだが、それも商業インテリアという性格ということを思うと無条件に肯定するのは難しい。
ともあれ、入場無料なので何をしているのか、時間あればちょっと覗いてみるつもり。興味深いものであればまた報告しよう。

Judd Tour: テキサスドライブ編/The Chinati Foundation (1)

汗一つかかなかった冷夏のボストンを過ごしたアジア系友人3人と、大学開講前に暑い夏を求めてどこか行こうという話になった。
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向かう先はテキサス。車を借りて荒野を走り、とにかくどこかそのあたりでテキーラを飲もうという、とても安直な計画が進んでいった。まずDallas空港から車でメキシコ国境近くの街、MarfaのChinati Foundaitonに向かい、その後、建築学生の「お約束」として、建築をみるべくSan Antonioにあるリカルド・レゴレッタの市立図書館、そしてDallas=Fort Worthのキンベル美術館と近代美術館、レンゾ・ピアノのNasher Sculpture Centerなどに寄ろう、という話でまとまる。
Chinati foundationとは美術家Donald Judd(1928-1994)が開設した現代アートの財団で、もともとメキシコとの国境をにらむアメリカ軍の前線基地だった。その建物群を彼が1979年から購入し改修を手がけ、現代美術のための前線基地に換えている。広大な敷地にはジャッド自身の作品のほかにも彼の友人の著名美術家が寄贈した作品が収蔵されて、現在も拡張を続けている。さらに彼の住居兼アトリエも生前のままの状態で残され、訪ねることが出来る。
ダラス空港からレンタカーに乗り、まずは一路Marfaまで合計10時間のドライブを敢行。早くも我々の楽天的な予想を遙かに上回る時間のドライブになった。ハイウェイを降りて人気のない一本道をひた走る。ヘッドライト以外に頼るものがない路上で突然、日本から携帯電話に2件も電話を受け(うち一つは銀行)、とても不思議な距離感を味わう。
しかしやがてそれも音信不通になる。電波の及ばない境界線を越えたのだろう。人気のない街に到着したのは深夜1時。あてにしていた安宿はとうの昔に倒産し、街外れの荒野に面したモーテルRita Inn(一部屋:2Wで約$60)でようやくベッドにありつく。 ・・・とは言っても、信号はたった一つしかない街から車で5分もすればそこは人のいない場所になってしまう。

・・・・・

ここで少しジャッドのこの場所での活動する経緯を思い起こしてみる。
ジャッドは1960年代からニューヨークでアーティストとしてプライマリーな形態のオブジェを発表し続けていた。作品が3次元だということは現実の空間を占め、つまり定義されかつオープンな空間を占めるということであり、オブジェそのものだけでなく、作品を取り巻く空間との関係が非常に作品の質を作用する。しかし、多くのインスタレーションや作品の取り扱い方が作家の意図にそぐわず不適切で、そのため彼は作品を作家の意図に忠実に見せたいと考えた。彼は次のように書いている。
「どこかに現代美術の一部は芸術とその文脈の意図するとおりに存在すべきである。ちょうどプラチナ・イリジウム製のメートル原器が巻き尺での測定の誤差を補正するように、この時代と場所の芸術のための厳格な基準がいる。」

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そこで彼は作品をその周囲の空間と無関係に白い箱形空間に陳列されることに異をとなえ、そしてアートと生活と仕事が現実の空間の中で相互に働きかける場を自分で作るようになった。
それは普通の美術館ではほとんど運営上不可能な、少数の作家による大きな作品がそれぞれのための独自の場を与えられることだった。しかもそれは、恒久的にインスタレーションされる。
こうした恒久展示の考えは、たとえば磯崎新氏が93年頃日本の岡山県の内陸部に位置する奈義町に恒久展示を前提にした奈義美術館の構想にも影響を与えているだろう。(そういえば、この地にも自衛隊基地があるのはそうした発想の引き金になったのかもしれない。)
そしてその後、多くの美術館やギャラリーが彼のアプローチに影響されることになる。例えばニューヨークにあるDIAアート・センターはチェルシー地区の古い工場を改修している。そしてロンドンのテイト・ギャラリーはかつての発電所を美術館に改修している。美術家にとって何故新築の美術館よりも古い建物の方がいいのか議論すると複雑になってしまうが、現代の建築に対する不信感があるという。少なくとも多くのアーティストはそう考えている。テイト・ギャラリーが拡張計画を決める際にアーティストに、どんなタイプのスペースに自分の作品を展示して欲しいと思うか意見を聞いたところ、大半のアーティストがこういったタイプの既存の建物がいいと答えたという。

自転車(テスト投稿)

今日は自転車に乗って買い物三昧でした。往復10キロ近く走るとさすがに汗かくね。緑とレンガのコントラストが実に心地よくできてて、ボストンってきれいな町だなあと改めて関心。ひねくれ者の私目にはその生暖かさが今日の世界の縮図になりうるようなリアリティを著しく欠いている気がして、今ひとつ惚れ込めないのだけど。
こうして自転車に乗ってみると、コンパクトなデジカメがあればナアと感じた。
イオスは携帯するには少しかさばるサイズ。pallalinkにリンクしてるウェブ写真家はどんなカメラを使っているのだろう?

about miya

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recent sistuation

 写真の下の男がmiya/miyajimaである。上の淑女はthetaである。二人は20世紀以降の建築技術史の展望を議論している。 (のちのpallaの説明によれば、miyajimaがthetaのお気に入りのおもちゃに夢中で返さないのでthetaが早く替われとせがんでいたとのことらしい)
 miyajimaは名古屋で生まれた。大学、大学院と建築を学び、卒業後大阪の某所で建築の設計を行い、時々コンペや実作で賞をいただいた。その傍ら建築・美術批評家の大島哲蔵氏やprof.F氏が組織する建築私塾「豊和塾」に惨禍し、この建築道場で酒が強くなったという。その後懐の広い出版社や先輩建築家の方々に見守られて時おり建築・アートの評論を掲載させていただき、またシンポジウム司会の末席を務めさせていただいている。
 2004年から職を離れ、アメリカのハーバード大学のGSD(Graduate School of Design)という大学院でprofessional programの建築学生の身分になっている。2002年に暴飲暴旅を共にした大島氏が急逝したのがきっかけでと本人は尤もらしく語るが、実のところは新しく暴飲の友を探しているのかもしれない。miyajimaは旅そして酒好きで、 勤勉な学生の誰もが彼に影響されないように部屋をシェアするのを恐れているという。現在、ノーベル博士を受賞されたというウィリアム教授の離れに下宿している。その離れとは、もともとカー・ガレージだったことをmiyajimaは知らない。
最近、教授がかの「少年ジャンプ」に特集されたことを知らされ、教授夫人からその英訳をせかされている。
下は彼の近況である。