Jacques Herzog Lecture(後編)

walker art center
2つの美術館のプロジェクトが紹介された。
ひとつはThe Walker Art Center in Minneapolis (projected completion 2005)の増築計画。
そしてもうひとつは
The New de Young Museum in San Francisco (projected completion 2005) 。
2つのプロジェクトはともに既存の美術館を増築する内容である。もちろん講演から実際の設計プロセス全体を知るのは限界があるとしても、ともに完成を間近に控えて、設計から完成までのプロセスの大枠をうかがうことが出来た。


興味を引いたのは、今回彼から聞いたプロセスを一言で言うと、どうその場所の特異性をひきだすのかということだ。既存の状況がどういうatmosphereにあり、どのような問題を抱えているのか?そしてどのような可能性を潜在させているのか?そこでの特異性は何か?そうした場所の読み取りを歴史、スケール、交通、タイプといった評価軸を分析し、その対策を計画に盛り込んでいくようである。
walker front view
Walker Art Center in Minneapolisではいくつかの建物がばらばらの様式をもちながら散在している。しかし幹線道路に分断されたかたちでどれかが強い支配力をもつことなく、統合的な建物はない。もっとも新しいモダンスタイルのミュージアムは、彼によれば「好ましい」建物だが外部に対して閉鎖的で環境に適応しきれていない。さらには、都心へのコネクションが希薄である・・・

walker new box

かくして隣接する既存の建物群の特性を調査し、問題を抽出し、プロジェクトの本質的な狙いと可能性を洗い出していく。
ここでは閉鎖的でジェスチャーの少ないモダンな既存棟に結合する形で計画が進められ、閉鎖的でジェスチャーの少ない既存棟に対し開放性がたかくジェスチャー豊かなヴォリュームの配置がセットされる。表層のデザインも透過性のあるメタルスキンがさまざまなスタディを重ねて開発される。その一方で既存建物群との環境的な連続性も検討され、建物全体のフォルムや装飾的な模様の内装テクスチャなどが既存のものから導入される。

waker concept sketch

これはスライドを見る限り各棟全体のばらつきに関係を与えることによって、偶発的なピクチャレスクを、人為的つまり芸術的なピクチャレスクにおきかえるということだろう。それが建物ヴォリュームの配置から新築棟のプランまで徹底されている。
ではここでのピクチャレスクとはどんな関係になっているだろう?ラスキンのように道徳的、倫理的尺度によってそれぞれの格付けを与えることは現代の我々には抵抗があり、実際それがいまどれだけ有効なのかは推し量ることもできない。そうした美醜の格付けに固定して支配的な建物をつくることよりも、むしろそうした矛盾を生み出す関係のなかに建物を位置づけること、つまりヘテロジニアスな美意識に主眼が置かれているんだろうな。
ヘテロジニアスが生まれる背景としてsignifiant とsignifierntのズレがその重要な発生源のひとつである。ヘテロジニアスな意識、つまり「全容を把握しきれない真理」というのはずっとミニマルアートにも憑いて回ったモティーフでもあるけれど、互いに相補的な関係を持つべく、ここでも既存のヴォリュームや表層を新築棟に転移、変容するなどといった一連の操作はすべてその所以だと言える気もする。
de young areal axis
もうひとつの美術館、The New de Young Museum in San Franciscoは周囲のランドスケープとそれを囲むサンフランシスコ市街地との関係に重点がおかれているようだった。ずいぶん保守的なクライアントの対応に苦労したとのコメントもあったが、思いを果たせなかった無念さは残るにしても、それはよくある話というもの。こちらのミュージアムも100年以上の歴史を持ち、19世紀アメリカ美術の収集、発展に貢献してきた。しかし施設としては増築をかさねていくつかの建物の寄せ集めの状態になっていた。それが1989年の地震によって決定的なダメージを受け、今回のプロジェクトに至ったという経緯がある。

de young areal view

ここでは既存のタワーを意識した新しいタワーと、平面的な広がりをもつフラットな建物の2段構成になっている。フラットな基壇はGolden Gate Parkに直接呼応し、タワーは公園を取り囲むサンフランシスコ市街地に呼応している。
既存のタワーはヒッチコックの映画に出てきそうなスパニッシュ風の建物である。これに対して新しいタワーは足元では敷地の軸に従い、ねじれることで頂上の展望台部分ではサンフランシスコ市街のグリッドに平行になる。このタワーはバーゼル駅のSignal Box auf dem Wolfの発展型なのだろう。新たにねじれた建物内部がどうなっているのか、そして既存のタワーとの関係がどうなっているのかも興味がわく。遠くから建物を望むことの出来るこのロケーションなら、その彫刻的な身振りはかなり効果的かもしれない。

1st scheme
scheme2
plan

足元の建物についてはどのように公園とギャラリーを相互作用させるかに重点をおいたという—-どうやって周囲の豊かな自然を分断することなく建築内部に浸透させるか。そして内部と外部を反転させることができるか?
建物は床面積の50%以上が入場無料という性格から、公園と連続したオープンな性格が求められた。すなわち、いろんな方位から建物に入場可能であること。このあたり、コンテンツの作成にどこまで彼らが関わっているのかはわからないが、既存の「館」という概念に挑戦できる非常に魅力的な内容である。
建物の構成のスタディをスライドで順次解説してくれたが、はじめは矩形のヴォリュームをパヴィリオン形式に散在したものとなる。しかしそれでは各ヴォリュームがスタティックすぎて公園の内を散策するような流動性に欠けるということから公園のパターンなどに着目し、徐々にかたちをプリーツ(襞)のように折り込まれた形に移していく。このくさび形に折り込まれた空隙の部分に公園からの自然が差し込まれ、ガラス越しに内部空間に浸透していく。館内へのアクセスも複数の中庭を通って内部に入るようにしつらえてある。
また外壁全体には有孔銅板が用いられる。この銅板は今回のプロジェクトのために特注したもので、開口率や孔のパターンに変化をもつさまざまな銅板が使われている。この銅板は周囲の枝葉のように、庇やガラス窓に木陰のような陰影を与えると共に、年月の変化と共に変色して色合いを変えていく。
ジャックが「これは私たちの考えをとても端的に示す写真だ」とコメントしたのも、こじんまりした中庭に植樹と彫刻が同居し、そこに光が差し込むとても地味な写真だった。

courtyard

ただ一方、彼の説明からすればこのプロジェクトはややオーバースケールだし、外周周りの矩形の造形が周囲のランドスケープに対して伸びやかでないかもしれない。ある領域から別の領域に移るときのくびれの部分の体験はたしかに面白そうだ。だが、ルチオ・フォンタナの絵のように中庭が矩形の内部空間に切り込んでいく割には、写真ではあまり切り込みの強さが感じにくい。地面(ランドスケープ)の存在を感じにくく、全体として大味な気もするが、どうなのか。ややもすればスキンもハリボテに転じてしまう・・・このあたりは今年まもなくオープンされるので現地で堪能してみようと思う。

Hamburg

ハンブルグのフィルハーモニーのプロジェクトは省くが、大雑把に言うと既存の倉庫街を取り壊すことなく都市の資産として活用し、その上部に新しく様々な都市的生活の空間を雲のように浮遊させ、それらを立体的につなぐという提案である。ここでもレンガの倉庫街のポテンシャル—ある敷地とその場所に立地する構築物との間に見られる関係—を読み取り、この場所特有の建築を創出することがもくろまれている。余談だが音楽ホールにはあのベルリン・フィルのほかにも東京のサントリーホールなどが参考にされていると知って懐かしく思った。
建築はある意味では時間を空間に置き換えたメタファともいえる。だがそれもたかだか都市を眺めるための一視点に過ぎない、とヘルツォークの師、アルド・ロッシが言うように、都市の構造は建築の領域をはるかにこえたなかにある。そのバランスの取り方が彼らはうまいと思う。
最後にジャックのキャラクターについて。ジャックのスピーチは、選び抜かれた簡明な言葉で自身が何者であるかを表明することに成功している。たとえ深刻な問題があったとしても、彼ならなんとかするだろうという安心感を醸し出すのは不思議である。何が問題で、どういう取り組みをして見通しをつけているのかを無駄なく説明できる能力、何をしたら次にどういう反応が来るのかを予測できる直観力、その安定感がクライアントに彼にプロジェクトを任せてもいいような気にさせてしまうのだろう。カリスマとはそういうものなのだろう。

14年前
  1. 「破壊からの、、」
    日本の美術館が今見直しを迫られている、、
    そんなコトをこないだテレビにて放送していました
    こういった流れを受けているのなら良いのですが
    どうも管理側の儲けがどうのこうのと言う話で
    おざなりに民間へ委託を・・なんて内容でした
    (一部努力はしているようですが・・)
    ”故東山魁夷が好きで時折長野まで行くこともあります、、”
    母が油絵を描いていたこともあり
    わりと美術館とかには行く方なのですが
    いつも思うのが
    ”常設展”って、、
    「観て欲しい」って気持ちある?と。
    僕がもし館長やっていたらもう少し、、って思うこと屡々
    (あくまで気持ちですが・・笑)
    宮島さんのように難しいことは分かりませんが・(^_^;)
    もっと、広範囲にアートをプロデュースする動きがあったらいいのになあ
    なんて
    そう記事を読ませていただいて思いました。
    スケールが違うんですね。

  2. ヘルツォークで私が引っかかっているのは、カリスマ、スターとかそういう問題がからむことにある気がしてきました。
    そういった存在の発言がなにか新しい言語を含むかのように装うため、既成の言語による反論を無効にしてしまう。なんだかんだ言っても豆腐に釘刺すになってしまう。しかしどうして彼の物言いに迫力負けしてしまうかというと、その力の源はやっぱり新しい言語でものを言ってるからだということになってしまう。
    こんな話題は具体的に作品や人をみてどうこう言うべきだろうけど。。。ひとまず。

  3. 彼が講演で主張する内容、たとえば記憶、公共性といった内容の背後にある、超越的な作品のふるまいがなければ、彼の主張もそれほど他の建築家と違って際立つものでもないかもしれないと思う。そんな作品の振る舞いは一般的に言うモラルや機能を超えた何かだろう。つまり建築家が時代の構造に踏み込んで、空間秩序が社会的秩序となるようなシステムを提示しようとし、それによって社会を変革しようとする意思ではないかと思う。それは彼の師ロッシが言うような、都市的創世物であったり、モニュメントという形で現れるといっていいのかもしれない。(しかしそれはどれひとつとして実現を完遂することは能ず、その断片として都市に組み込まれていくとロッシは言っている。)それは、超越的なふるまいを通して集団的な意識を覚醒させる力をもつことがある。彼はそれを推進する個なのだという気がする。
    実は講演終了後、彼の言う公共的空間とはどのようなものかという質問がいくつか交わされた。
    彼の言う公共的空間によって彼の作品の振る舞いを説明しきることは当然できず、また彼の言う公共性とは、異質な個が同時存在する空間というものでもなければ、均質な個が集合するユニバーサルな空間でもない。ではヘルツォークにとってそれは何なのか?
    こちらで現代建築史の教師でもあるジョージ・ベアドは、ミースにおいて公共性という概念への取り組みがあったと言うことに対しては否定的で、「自発的な連合」という多元的な観念よりも、「全体意思」に近いものでだという。あたかもミースの建物が律する物質的な空間の中で、人文的な観念の居場所はそこに見出すことはできない。これはヘルツォークの建築をたずねるときにしばしば催す体験でもある。ゲーリーの建築でさえ、愛嬌のある振る舞いの背後にあるのは、コマーシャリズムでもなく、そうしたものだろう。モニュメントがまっとうな道徳的倫理だけでは構築不能な独自の倫理を持っているように。
    moneoがヘルツォークの作品について「マテリアルだけがそこに存在し、自身を表明する」と語るように、物質の自律した世界、そして物質が存在する根拠となる場所や時間が主題となる。そういう意味では最近のヘルツォークの作品が大規模になるとともに、物質そのものから物質の背後にある意味が表現の重心に移ってきてきているのも理解できる。
    「どのプロジェクトについての質問なのか?」と聞き返す彼は、それについて何か一貫した主義のような形ではっきりと答えるようなことはなかった。だが彼の言う公共とはいわゆる道徳的なクリシェとなった「公共空間」とは少し意味が違うようだ。
    彼自身のプロジェクトは場所も条件もさまざまだが、その意味でうまく利用され、作用していると彼はこたえていた。 彼によれば、共同体を規定するイデオロギーとして公共性をいうよりも、単体としての建築が記憶から交通物流までさまざまな段階で、いかに都市の意識を持ち、またそれが都市的環境に能動的に作用する力、そんな意味で公共という言葉を使っているように伺える。それは都市の意志と個人の意志の戦いでもあるだろう、そんな気がする。

  4. 「推進する個」としてのヘルツォーク、というのがこのことを一番よくあらわしているのではないかと思う。
    個として発言するときのみ彼の新しい言語は意味を持つ。
    今、個というものの力がいかに影響力を持っているかをそこから読み取ることもできるかもしれない。
    ある人に芸術作品は自律すると言われ面食らったことがあったが、その気分が支配的になる理由はなんなのだろう。個の力がその強力さゆえに全体を統合する役割を担わされている。そのことはもう後戻りできない話だけど。

  5. 説明が少し足りなかったかもしれない。彼の言ってたことをすこしだけ補足します。
    「公共空間」とは、彼にとってはじめに何か公共性とは何かはっきりしとしたい意味を伴ったものでない。たとえばエッフェル塔の足もとの写真のように、構築することによってそれまで何も直接的な文脈のなかった場所に人が集う。つまりある構築は、都市の成り立ちを変えるほど作用を都市にもたらすときがある。それが建築の尽きない魅力のひとつでもある。
    そして逆にもし、そこに人が集う機能を果たせなければ、それは公共空間としての機能を失効し、構築物は消失していく。その意味で振り返れば、幸いにも彼らがこれまで造ってきた場所は比較的うまく作用していると言う。
    これまで公共空間は様々な歴史的イベント、たとえば革命や天安門事変などを起こし、社会的変革の象徴的場として作用してきた。その意味でなのだろう、興味深いことに、彼は日本には公共空間はないと言う。日本の公共性とはなにか、いまここで再び考え直す機会としていいのかもしれない。

  6. 『トリスタンとイゾルデ』(ワーグナー作曲)の舞台美術は彼らによるもののようです。2006年4月のベルリンで。なにもない空間となるのか過敏なものとするのか。演奏はバレンボイム指揮ベルリンシュターツカペレ。所謂「オペラ」にはうんざりなので非常に楽しみ。是非聴きに行きたい。ちなみに『トリスタン』といえば少し前カールスルーエでザハ・ハディドが舞台美術を担当。
    もし詳細ご存知でしたらレポート楽しみにしています。では。

  7. これのことですよね。
    http://www.abendblatt.de/da
    ちょっとまわりにあたってみましたが、いまのところは、どうなっているのかわかりません。お役に立てなくてすみません。
    たしかにこちらの美術館の常設展示の内容には驚くことがありますね。GSDの隣に大学付属美術館があるけど、ふつうにモホリ=ナジのキネティック彫刻なんかが置かれてたりする。これはアメリカのアートコレクターのずば抜けた購買力を背景にしているところもあって、たとえばある方の話によれば、
    J・タレルのほとんど同じ「光の瞑想室」を2つほぼ同時に買ってしまう人がいたりする。こういうのは、日本人はそうできないでしょうね。

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