Vision of Nomadic Museum

manhattan view
3月5日から6月6日までオープンしているNomadic museum以前書いたように、設計は坂茂さん、写真家のGregory Colbetの作品を展示する仮設のアートギャラリーである。これから5月までは大学のファイナルレビューで忙しく時間の余裕もなくなるので、この時期に一人NYに日帰りで寄ってみることにした。今回もあのチャイナバスに乗車。満席でいつもと何ら変わりない。


view from access
マンハッタン西岸のハドソンリバー沿いに歩くとコンテナを市松模様に積み上げた構造物に目を引かれる。2月に見た工事中の風景から劇的な変化を全く感じない。普通、建物の工事は構造体から順に表層の仕上げ材に進んでいく、そして徐々に生々しい物質感を失って行く。そこで建築家はディテールや仕上げに創意を注ぎ込んでそれを維持しようとする。ところがこのnomadic museumはコンテナにテント屋根を張ったのみの鉄骨の構造体である。建築的なディテールもほとんどなく、ごく単純に既成金物で物と物が結ばれている。構造体はとても明快なシステムでできている。

detail

以前は工事中で立ち入れなかった内部をようやく見ることが出来た。市松模様に積み上げられたコンテナの空隙から差し込む光、マストを思わせるテント屋根をやわらかく浸透する光の状態はどんなものか、そして古びたコンテナの暗闇に収容された作品とコンテナの隙間から見えるマンハッタンの風景を見て回ることができるだろうなどと勝手に期待していた。
しかしその期待はどうも虫が良すぎたようだ。実際は全く違っていた。考えてみれば当然のことかもしれない。コンテナはあくまでも空間を囲む構造体で、人が周遊するような機能は持ち合わせていなかった。使い古した既成のコンテナに人が出入りできるよう構造算定することは至難の技なのだろう。またコンテナは通常、両側面のパネル内部にブレースが入っている。だから後部にある通常の出入口をそのまま利用するか、パネルをばらさないかぎり、むやみに側面に開口を設けると強度をそこなうことになるし、コンテナを再利用することも出来なくなる。
それでもコンテナの色彩のパターンをそろえたり、余計な仕切り壁もなくワンルームとして大きな空間全体をそのまま展示空間に使っているところなど随所に意志を感じることができる。

interior

またさらに、写真と映像の展示という建物の性格上、屋内に自然光が入ることは認められていない。そのため外部の白いテント膜の内部は黒い遮光シートが張られている。そして一切の暗闇の中にスポットライトを浴びた写真作品が紙の列柱に沿って陳列される。約12mの高さをもつ紙の列柱(ジョイントおさまりを見ると構造体?いや仕上げ材か)は建物の中心軸に沿って左右対称に立ち並び、その古典的な屋根と柱の構成は教会の内部空間を髣髴させる。建物の構成も至ってシンプルで、紙の柱とコンテナ、そしてテント屋根をジョイントして構成された1ユニットをそのまま反復して並べ、奥行きをつくっている。列柱に沿って足場板の床をこつこつ叩きながらまっすぐ内奥にすすむと、その突き当りにはキリストの偶像の代わりに巨大な映像作品が投影されている。
映像はアジアの仏教徒の少年が象と無言のコミュニケーションをとる美しいモノクロームの世界を描く。ロケ地はおそらくパガンや他に見覚えのあるアジア各地・・・。象の見開いた瞳孔は人間のそれと全く同じように撮られ、象と少年の身体と心理が結ばれる。そんなファンタジーも嫌いとは言い切れないけど、ストーリーの背後にあるはずの、現実の凄惨さが全く伝わってこないのがどうにも違和感を抱くようになる。そして早々に遠慮してその場を去ることにした。

side view from a waste jetty

この敷地はもともと旅客船が停泊する波止場だったという。今でもその名残として錆びついた鉄骨のゲートが残され、今回の展示建物のゲートとして機能している。コンテナはそうした場のいきさつに人の意識を向ける。
しかし、すぐ1ブロックも足を進めると、本当にそうしたナイーブな解釈だけでOKかと自問してしまう。これは建築そのものの作品の質とは直接関係しないが、なぜこのエリアにこうしたイベントが行われるのかということを考えると、どうも一筋縄ではいかない。
この建物はチェルシー地区の一端にある。このチェルシー地区には、アートギャラリーやコムデギャルソンのようなブランド、またそれにつられてレストランなどがソーホーなどの観光化しマンネリ化した地区から移動し、船荷や食肉用の倉庫を改装してきた。こうしてこのエリアもスノッブなエリアに成り代わってきた。このエリアを何気なく他の地区と仕切っているのがハイラインと呼ばれる廃線の鉄道高架である。
exclusive(排他的)という言葉は、たとえばOMAのPrada NYのように、ブランド化の戦略の一つである。かつては人が立ち入るのを拒むような城壁のようなこの高架線も、今ではスノッブな人たちがダサい人種を排他する城壁に成り代わっている。城壁の中(あるいは付近)には建築家デザインのアパートメントやギャラリーもある。(それでも当然今では我々のようなカメラを手放さない観光客の餌食になっているのだが)。ここはダーティーなリアリズムをクールなカルチャーで楽しむ今スノッブな場所だといっていい。そして現在、この高架/無人帯もまた、公共的にリノベーションする動きが盛んになりつつある。都市の資本の流れに、歴史も空隙もまた投資の対象となり、いやおうなく飲み込まれ消費されていく。これは建築のある宿命ともいえ、うかうかと無策に都市に開くどころか、そうした獰猛な都市との闘争、パワーバランスを拮抗させるネゴシエーションでもある、そんな側面を垣間見た気がする。
highline

14年前
  1. そこに安藤忠雄と同じマイナス点(といっていいのかな?)がありそうですね。紙が彼の持ちネタである以上、化粧材としてでも使わんと個性なるものを帯びてこない。あの柱が無骨で重い鉄骨であるほうが私としてはしっくりくるけど。

  2. ジョイント部分のおさまりを見るかぎり、紙の柱は鉄骨を被覆する仕上げ材でしょう。作品展示との関係で、どうしても紙の柱を使わざるを得ない理由があったのかもしれません。NY以前の展示では、教会内部で同じ作家の展示をしたと聞いています。もしそうなら、写真家から同じスタイルで展示を、というリクエストがあったかもしれないですね。
    ともあれ紙の柱は作家の坂さんの署名性を強くもっていました。アートの作品が往々にしてそうであるように、構造的には必要な材料ではなくても紙の柱はシンボルとして訴求力はあると思います。
    ただ、たしかに最小限の部材をリサイクルして最大限の空間を獲得すると言う意味なら、むしろ使わないほうが坂さんの言う「エコロジー」には貢献できるという矛盾はありますね。たとえばコンテナと屋根だけの構成にして、内部を人が回遊できるような、最小限の部材で最大の空間面積がとれるフラー風のアプローチのほうが、僕個人はずっと明快で好きです。
    実際のプロジェクトはいろんな要因が重なるものですから、単純に作品によしあしを押し付けることは難しいですね。よしあしも大事ですけど、なぜそうなったかと言うプロセスにも興味があります。プロセスの中に埋め込まれた様々な可能性のベクトルを見直すことはそこに内在する問題を生産的に引き継ぐことでもある。そのあたり、掲載された雑誌新建築はどう書いてあるのか拝見したいですね。

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