Hans Schober / Free form glass structure

Fuksas
毎週行われるToshiko Mori さんの講義Innovation in Structure
では才能をもつ構造家や材料研究者が講演をする。こうした人たちに触れて、学門としてだけでなく、本当にユニークな人物が世の中にはたくさんいるなと実感する。そしてまた自分を振り返る。
これまで講演された人だけでもHiroshi Ishii (MIT)、William Baker (SOM)Werner Sobek、佐々木睦朗先生、そして来週は以前にも書いたことのある「宇宙おじさん」こと石原教授・・・。この人たちの未開の分野に取り組みは、自分たちが今どこに向かい、今何が問題なのかを再考させる。そうした世界は未開拓なだけに前例がなく正否の判断がつきにくい。それは「これからは○×△の時代だ」などといったパラダイムモノとは対極にある。(居酒屋で威勢よくそういう気炎を上げるのはカラオケ同様、個人的には好きだとしても)。もちろん何かの宣言はあってもいい。しかし一方何か未知のものをつくるときは、そこに何かがあると確信しつつ、一方でそれに戸惑いながら前に進む、すごく強引に言うとそういうものなのかもしれない。

fuksas

今回はドイツから構造家Hans Schoberが2回の講義に分けて講演。今回はその一回目となった。前回講演されたSobekが黒づくめのスリムなスーツ、そして飛びぬけて美しい秘書を従えて来たのに対し、ごくふつうのグレーのスーツで一人やって来た彼はいかにもごく普通のおじさんといった感じだが、取り組んでいる内容からすれば、とても過激なおじさんだ。


Schoberはフランク・ゲーリーやマッシミリアーノ・フクサスなどの自由な彫刻的造形を設計する建築家と数多くのプロジェクトに協働している。そこで彼の最近の取り組みは、自由な形をもつガラスの屋根を、いかに合理的かつ美しい形で構造的に可能とするか、ということである。そうした取り組みを建築史の先代たちの事例紹介からはじまり、それを受けて彼自身が現在の技術を取り入れてどう実際に取り組んできたのかを説明した。

surface

まず何故ガラス屋根なのか。プラグマティックなひとつの理由はやはり彼が現在取り組む仕事の多くが自由なガラス屋根の造形を求めているからということになる。屋根が透明なガラスである以上、構造体は屋根の造形に一致する必要性があり、ハリボテのようにごまかしが効かない。自由な造形を構造と表皮が一体化した造形を可能にするには、優れた構造家の才が必要となる。ここで軽くて透明な構造体は彼の使命となる。
自由な造形を構造的に解くと言うのは、カオスのように見える世界の中にひとつの一貫したルールを与えるということだろう。自然を司る高次の数学的秩序を我々はコンピュータによって建築にも展開しつつある。たとえばSchoberはgeometric principles(幾何学的原則)という言葉を繰り返すが、複雑な流体的デザインの屋根をどうやって単純な幾何学的単位に解体し、それを全体に反復することで合理的な構造に導くかということである。

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ここに、二つの幾何学単位がある。ひとつは三角形、そしてもうひとつは四角形。これをガラスやパネルの割付に利用し、それを支える構造体もまたそうした幾何学形態にしたがった形状をもつことになる。だからどんな幾何学単位をとるのかというのは重要な問題になる。たとえば彼によればバックミンスター・フラーは六角形を多用してガラスのドーム「フラー・ドーム」を実現しているが、ここでは六角形を支持する三角形のトラスが幾何学単位を担っている。しかし通常、均質な幾何学単位では自由な流動的造形の実現が難しい。かといって場当たり的に幾何学単位を押し込んでは合理的な構造解析はできない。
流体的な表層の力の流れは決して均質でなく、過重はした偏在した力の等高線を描く。それに見合った構造単位の方法として彼が取り組んでいるのが不整形な四角形フレームの連続体である。
原理はこうこう捉えると直感的にわかりやすいかもしれない。まず地表に一枚のグリッドをもつ平面図のシートを置く。次にそのシートを建物の高さに合わせて引っ張る。するとグリッドは 引張力の流れに合わせて非直角に変形する。各辺の長さもそれに応じて若干変化する。次にこれを上下ひっくり返すと、引張力は圧縮力に変わる。そして分布する荷重の大きさに応じて二次元の変形グリッドのいくつかにブレースを入れてフレームの変形を抑える。
こうすることで各部材の変異を最小限に抑えながら薄く透明な表層を実現する。こうしたアプローチはアントニ・ガウディが釣鐘と鎖を使って引張力が描くカーブをそのまま建築の造形に応用したことに起源をもっている。幾何学単位がフレキシブルになることで、合理的に自由度の高い造形を可能にするといっていいだろう。

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さらにサッシと構造体を一体化し、さらにグリッドの結節点のパーツをすべて同じおさまりとすることで同時に生産性、施工性の合理性にも取り組んでいる。このジョイント部分のおさまりは、各部材の角度調整やブレースの有無を可能とするおさまりとなっている。しかし当然、すべての構造材は特注の型材となる。構造部材の外観を統一するためには部材の肉厚も場所に応じて変えていく必要もある。そのため、信じられないような薄い皮膜の構造体が実現されるためには、それでもなお非常に高価な予算が必要となる。既製品を使いまわした在来のフレーム構造の方が絶対的に安価であることには変わりがない。しかしそれでははじめの形とは似ても似つかないものになってしまう。この場合、さしあたっての解決法としては構造体全体の自重を減らすことでコストを削減するのが精一杯といったところのようだ。そもそも、はじめから建築家にそうした造形を期待したプロジェクトの性格上、必要な予算を補う機会はあるようなのだが・・・。

the process through the debade with architects

それでもなお、彼の合理的なアプローチによって驚くべき造形をもつプロジェクトがいくつも実現されている。どうやってそうした形が実現されたのか、その実際の設計プロセスを彼から伺うことができたが、それは事件を推理し解決に向かう探偵小説に似ている。はじめに事件ありき。建築家の描いた自由な造形を受け、彼はプロジェクトの初期段階から建築家と共同作業を始め、建築家の構想、動機などを議論しながら設計条件を整理し検討をはじめる。これは彼にとってプロジェクトに取り組むための必須条件である。そしてある程度の設計データが集まるとCATIAを使い、表層にかかる荷重分布が美しくホモジニアスに流れるようになるまで表層を上げたり下げたりして仔細な変形を繰り返し、建築家と形態の検討などを協議し最適と思われる造形に持ち込んでいく。
またジョイント部分のようなディテールの検討はCATIAのデータをCNCモデルに出力し、3次元の模型で検討する。またそのデータは生産プラントに送られ、正確な寸法で部材が組み立てられる。こうした設計アプリケーションの向上によって、複雑な造形の検討も十分可能になり、試行錯誤が何度も出来るようになった。またそれによって、無限の選択肢のなかでどのような造形にするのかを決定するのは非常に難しくなってきた。だから断続的にやってくる選択肢を判断し、仮説を設計という形で証明するための判断基準/倫理が必要になる。今何が必要で、そのための空間を実現するには、建築家との「キャッチボール」はとても重要だと言う。彼によれば、良い建築は構造的な知性を通して技術や秩序を受容できる力をもつ。そして今いい建築を実現するには、相互の理解と相互の刺激が必要で、それによって建築文化に貢献することが可能になる。締めくくりに彼はこう結んだ
―――We should not do what we can do.
fuksas-roof construction

14年前
  1. >仮説を設計という形で証明するための判断基準/倫理が必要になる
    分野の違う人同士の対話によって、お互い未知のものへの具体的アプローチを築いていける関係が面白いですね。そのときお互いが相手の意見に耳を傾けて自分の方針を修正していかないと接続していかない。まさに倫理性を問われている。自分のものであるから見えていない自己の問題点を対話によって、気づいていけることの重要さを思いました。
    構造家と建築家は同時にすべてを満たすことはないでしょう。その接点をお互いに探る努力を大事にしないといけない。
    スーパーな個人を求めるスター/カリスマの存在はそういった重要な作業を見えなくしてしまうところに大きな落とし穴を感じてしまう。

  2. 「建築家は私とのプロセスの中で妥協を強いられる」と彼は明言していましたが、しかしそれによって私たちはより高い次元のかたちに出会うこともできると。たとえば、フクサスの3枚の断面プロセスの図版が示しているように、一番上の断面はフクサスがはじめにアウトプットしたもので、明らかにフラットな面と凹凸の面の接合部分が不連続で非常に荷重のバランスが悪い。そこで構造家が建築家の言外の意図を読み取り、力学的に適った代案を提案する。ほとんどそれは心理学者のような印象を受けるけれども、コンセプトを可視化することでもある。ここで連続的な一枚の面が提案される。ここで建築家がどんな応答をするのかが彼にとって非常に重要だとも言う。もちろん、建築家のはじめの案の形でも構造家は実現させることが出来るが、彼にとってはそれは合理的解決でない。その後、微妙な面の造形と構造バランスのやり取りが進められていく。この建築家と構造家のコミュニケーションは、与えられた事態から何か仮説を探り出し、それを立証するプロセスを客体化していくプロセスだと言えるかもしれない。それはユニバーサルスペースのような普遍性をもった決定解とはちがうと言う意味での合理的ではない。そしてそれに比べれば、彼ら/我々の形態の合理性はとてもナラティブなものに映る。
    ゲーリーのメシアニックな態度をとった造形はなぜ衆目を浴びるのか。構造家がなんでも実現可能という意味でなら、建築家も何でも実現可能だといえるだろう。恣意性と合理性のはざまにある緊張から、今我々がどこに向かっているのかを考えること、それがテクノロジーの限界を知ることのできない今の建築のrepresentationをめぐる論点の核心でもある。何をもたらすのかは、俯瞰するだけでなく、実践との検証が必要で、やってみないとわからない。リサーチと実践の相互作用は、その流れでもある。
    歴史から見ても、建築家は何か形式を避けがく引継ぎ、それをひきずりながら同時に違ったものを造り、建築とは何かをその時代ごとに見つけてきた。つまり継続と差異のダブルバインドに創造性の可能性があるということになる。マイケル・ヘイズによれば、フランシス・ベーコンが「そこにダイアグラムがある。しかしそれをどう描くのかは画家(建築家)なのだ」といったとかいわなかったとか。
    ところで、講演の際に本人が実際にラップトップを持ち込んでCATIA、ライノをちょっと使ってプロセスを語るのには感心した。最先端のテクノロジーを司り、自身を語るパフォーマンスの充実さは、典型的な技術者のイメージをとうに超えて建築家をしのぐカリスマ性をももちかねない。

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