Loophole素描–形の根拠

Cohen
先週に書いたように、GSDでLoophole(銃眼)なる建築シンポジウムが二日間にわたって開かれた。議論されたのは以下の4つの今後の展望について。それぞれのブロックに分かれ5-6人程度でゲストレクチャーとカンファレンスが行われた。カンファレンスをラフに素描してみようと思う。
1) 幾何学
もし幾何学が今なお建築の基本的な修辞、つまり表現対象だとすれば、幾何学は形態を制御する手段以上に建築に何かを働きかける可能性はあるのか?たとえばデジタル・アーキテクチャーはコンピュータを駆使して建築と幾何学の関係を大きく書き換えている。アルゴリズムや高度な数学は建築の創造性を今後どういった方向に進むのか。
Wave garden by Yusuke Obuchi http://www.kottke.org/04/06/wave-garden-obuchi


2) 表層・イメージ
建築は歴史を通して何かを表象する役目を担ってきたが、その一方で内部の構造や機能と無関係に表層だけの造形デザインは邪道とされてきた。しかし今日、多彩な素材や技術を駆使したブランド化や表層のデザインは「正当な」建築表現として見直されるようになっている。これまでグラフィックデザイナーなどの部外者が担ってきた分野に踏み込んだ最近の流れは建築家の表現手段をどう変えていくのか。
3) 地理
人工衛星や情報技術は我々に多様な地理上の情報をもたらし、また交通網の発達は実際の距離とその間の時間に大きな歪を生み出した。それに対応して、都市や建築を取り囲み、影響を与える環境も高度に複雑なものになってきた。こうした時間と空間の関係の変化は、今後建築家や計画家にどのような活動領域を求めるのか?
4) 知覚
しばしば表層的とかこけおどしだと誤解されることだが、知覚は少なくともベルニーニ以来建築家の関心を集めてきた。たとえば昨今のエフェメラル(はかない)な建築のムードは、建築が本来かかえる堅牢さから離脱し、ある特定の時間と空間を歓喜することを意図したものだった。このような建築の物理的要因と心理的効果のせめぎあいは、今後建築に何をもたらすのか。

conference

ほぼ全体を通してみれば、多様な人選もあって、それぞれの活動内容を横断する内容だった。それだけに共通の問題に対して議論を交わそうとすると抽象的な内容になりがちだった。しかしその一方でここにゲストとして参加した人たちには共通した問題意識のようなものもある。あえてそういった人たちを意図的に集めて建築のメインストリームに発信しようとするコーディネーターAshleyの意図がうかがえる。今のところ、出版するというような話は聞いていないが、もしかしたら彼女の雑誌Praxisあたりで掲載されるかもしれない。
個人的に、共通した問題意識として興味をひいたのは以下の2点。
ひとつはヴァーチャル・アーキテクチャーや、構造エンジニアの台頭が建築家をリードする現象がおきているように、テクノロジーがデザイナーにもたらす可能性の問題である。テクノロジーがデザインのプロセスを大きく変え、テクノロジー抜きにはありえないデザインが生まれてきていること。従来の建築の形式を逸脱した過剰なテクノロジーとエンジニアリングがデザインに逆流しているといえるだろうか。
実際、次世代のデザインやスタイルを紹介した講演者はカンファレンスでもほとんど議題にならず、逆に新しいデザインのプロセスやシステムや、都市のリサーチを語った人たちの内容に話題が集まり、可能性を感じたのも今回の収穫だった。
二つ目はJeffrey Inaba氏の講演のように、インターネットなどの最近のコミュニケーションによって、都市空間の様相が物理的にも変化してきたということ。20世紀の経済大都市がドーナツ化現象やスプロール化を引き起こした後、都心やハブに高密度でコンパクトに多機能が集積した都市空間の構築を目指す一方で、とくにアメリカ郊外や中国の新しい都市では空間と機能は物理的には一致せず、機能は空間を超えて拡散する現象がおきているということ。
あまり長く書かないようにしてざっと思い起こすと・・・

decoi

1)ではdECoiのMark Goulthorpeが高度な数学システムをデザインプログラムに建築形態を決定する方法を話した。同じようなことはKostasのアルゴリズムの講演でも聴いたことがある。通常のように数学システムや哲学言語をメタファーとして作家が創造力を駆使して何か具体的な完成した形をイメージして線を引くのでなく、ある初期的な形態をいったん決めた後、それを作家がつくったコンピュータプログラムにかけて、導入するデータを操作しながら形態を生成させるという試み。そこでは初期条件となる形態とプログラムの創造性と完成度が問題となる。極言すると、建築家はきわめてプログラマーに近いスタンスを取ることになる。実際、彼は建築家でありコンピュータ・プログラマーである。GSDでKostasのアルゴリズム建築の授業では形態生成のプログラムを組むそうである。だがそのアウトプットを見る限り、どういう操作をすれば何が出てくるのかをつかむ直感的なカンが必要で、プラス相当なセンスがないと、dECOiのような美しい形はまずつくれないだろう。
これに対してScott Cohenは、幾何学形態を回転しねじ込む幾何学的操作を通して従来の一点透視法的な空間認識から脱却し、空間を運動するときに生まれる多視点的な光景と建築形態とのダイナミックな関係を求める。

Hays on the Iraq pic

マイケル・ヘイズチュミの例を引きながら建築はいつも何か建築外のものによって建築が何であるのかを再定義すると説明。建築外のものとはまったく建築と無関係というよりは建築から派生したもので、それが建築を再定義すると同時に「建築」という形式を保持するのだという。英語ではRe-casting, Re-encoding architectureという言葉になる。たとえばヴァーチャル・アーキテクチャーが建築としてアクチュアルな可能性をもつゆえんは、物理的に素材も重力もそなわる建築の圏外から建築の違った次元を開示すると同時に、それがまさに「建築」なのだと断定することで、建築の領域を保持するということではないか。デュシャン「泉」のように。ドゥルーズによれば、ヴァーチャル は実在性を持ち、進化はヴァーチャルからアクチュアルに進むといったように。
ヘイズ自身が例示したのは人工衛星から取られた世界各地の地表の写真を作品とするアーティストの作品を紹介。高度なテクノロジーによって撮影された地表のパターンはときに抽象画を思わせる。たとえばカーキ色の砂漠を横切る一条の線と黒い斑点。そこが実は戦争後のイラクの衛星写真だと知ると、我々はどう思うか・・・。

Roche

ここでゲストとして参加していたフランス人建築家Francois Roche (フランソワ・ロッシェ)が客席から横槍を入れる。以前GSDでこの人の講演を拝聴したこともあるが、サービス精神あふれるオモロ兄貴ともいうべき愉快なキャラクターをもっている。高度な数学的スコア(dECoi)がわれわれの世界におきる体験や現象を表象するとすれば、作家の主観的な批評はどのようにそこに介入されるのか、といった質問。フーコーの考古学的アプローチも引用しながら長々と質問していた彼だが、つまりオペレーションにどう作家の主観的な操作が自律的なシステムに介入するかということだったと思う。そしてたしかに、アルゴリズムはある種の秩序を構築する一方で、それを作る過程のなかに多様な解を導き、はじめから「こうあるべき」というゴールを設けないオープエンドな性格といったデモクラティック(ポリティカル)な要因がはじめから内在している。そのポテンシャルをどう扱うか。そんなことを言ってると「アルゴリズムでなんでも造形可能と思ってはいけない」とまた佐々木睦朗先生にお叱りを受けそうだが、設計サイドの向かうアルゴリズムとエンジニアサイドのそれとは、今のところズレがあると思う。
それに対する応答は平行線をたどってしまったのは、仕方なかったかなと思う。時間がなく強引にまとめに入ってしまったが、もう一人両方に精通した人が「場外乱闘」をしてくれたら、さらに議論は面白くなったはずだが。
Francois Rocheにしても、コンピュータでないとありえない造形をデザインするが、どちらかというと作家の強いイメージや上位概念のモデルがまず先にあって、それを手がかりに形をぐいぐいいじり倒しながらつくりこんでいくといったスタンスと伺える。こういう在来設計に近いアプローチにはマトモな建築家もなじみやすいと思う。これに対してdECoiのMarkのスタンスはコンピュータのプログラムが形態を自己生成させていくプロセスを邁進させていき、作家はそのオペレーターとして形態の変容を随時立ち会う。そのどこまでも続く形態生成のプロセスを止めて最終的な形態の決断を下すのは唯一、作家である彼の意志である。たとえばdECoiと同様にalgorithmic architectとして知られ、さらにラディカルに空間を通して、ヒューマニズムに飼いならされた人間の知覚自体を野生に解き放ちダイレクトに外在化するMarocs Novakは、それは「美」だと言い切る(GSD講演にて)。
ここに二人の大きな違いが際立った。
Novak Lecture at GSD

14年前
  1. 「形の根拠」と来たんでしゃしゃりでました。
    >1) 幾何学
    >形態を制御する手段
    「手段」の奥行きと幅が拡張されただけで、対象は変わらない。ただ、高度な数学の応用は漸近的に建築形態の可能性を無限大/無限小へと近づける。それに対して賛意を示すのかが判断の分かれ目。
    >表層のデザインは「正当な」建築表現として見直される
    これも肥大化した建築的表現の幅が抱えざるを得ない問題。そうか、対象は変わらないけれど、「建築家」の領域は拡大します。
    >3) 地理
    >高度に複雑なものになってきた
    その「複雑」さ故に、ひょっとすると私たちは“contemporary”という概念を喪失したのかもしれない。そこにあるのは孤立した些末で“ephemeral”なものと、膨大で“immortal”なものだけが残る。とすると私たちは事物の二極分化と、その断絶の中で暮らしていることになる。
    話はズレるけれど、シンセサイザーにはS/H(サンプル&ホールド)という機能があります。一定間隔でホワイト・ノイズの音程をピック・アップする操作で、適当に鳴らしてメロディーを拾ったりしたことがあります。これも一種のプログラムの利用。それが「破綻」なのか「結実」なのかは捉えかた次第だけれど「ピック・アップする」のがオペレータなのは変わらない。そういった認識上の「突然変異」を、日本の建築家さんたちの言う「特殊解」といっしょにしていいもんだかどうかは悩むところです。
    アララってのを思い出しました。昔に藤幡正樹がCG上の物体を、レジンを紫外線で固めて物質化してたものです。これも「機能」を持たせて「建築」化すれば、評価に値するんだろうか。
    人から人に伝達したものにヴァーチャルなものってあるんだろうか?何事も個人の枠をハミ出たとたんに、ドゥルーズの言うようにアクチュアルになる。ただし、誰かに取り入れられる(INPUTされる)その認識(知覚)はヴァーチャルなんだけどね。
    じゃまた

  2. プロセスをストップさせるのは、そのときの気分に過ぎない。そうして出来上がる解の集積の中にもしかしたら、まったく気が付かない法則を見出すことができるかもしれないという期待感はあるかもしれない。ある決断を「美」としていきなり肯定することには抵抗がある。そのプロセスの意味を検証するには膨大なデータがいるのだと思う。多分時間も必要だ。そういう意味で、ロッシ的態度でのぞむことと、こういった話はつながってこないだろうか。

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