H & de M thesis final

H & de M Paris presentation
Spring semesterも終わりを告げた。今学期は秋学期に比べても個人的にはかなり満足のいくものだった。
まず手始めに一番最近の話題から、スイスの建築家Herzog& de Meuronのthesis final reviewについて覚書しようと思う。これまでも彼らの都市リサーチについて書いてきたが、そのリサーチの結果をリサーチグループの学生がいわゆる修論として最終発表した。こうした発表会は講演会とはちがって、一期一会の会話を通して講師である建築家の考えをより直接的に知る良い機会でもある。
このリサーチはグローバル化が世界的に進行する状況の中で各都市の特異性を見出し、それがどんな仕組みで機能しているのかを調査し、それを活かした今後の可能性をさぐるというものである。
今年はまだ一年目の調査ということもあって、調査の対象・内容がまだまだワイドレンジで的を絞りにくく、そのあたりはまだ模索中かなと感じる内容でもあった。しかし一方で「やりっぱなし」で終わらせてしまうのでなく、将来にも持続して取り組める奥の深い内容のきっかけとして、魅力を感じるものでもあった。
今年のリサーチの対象となった都市はサンフランシスコ、シリコンバレー、パリ、サントペテルスブルグである。この調査は来年にも継続され、マドリッド、ナポリなどを考えており、将来は出版を予定していると助手から聞いている。

Fog in San Francisco

以前からリサーチグループの学生メンバーやスイスのETHから派遣されている助手の人とは、途中経過を伺いながら言葉を交わしてきたこともあり、この最終発表は個人的にもちょっと期待をしていた。
朝10時頃から夕方6時過ぎまで、一人1時間ほどかけて発表と質疑応答がはじまる。名の知られた建築家のレヴューということもあって、ゲストクリティックも豪華である。レムのスタジオの最終発表の時もスタンフォード・クウィンターとかロバート・ソモルなどの早々たるゲストの顔ぶれに驚いたが、こちらも元NASAの研究者やヨーロッパコネクションの顔ぶれとそのコメントにまず感心した。当然のことながら、最終発表の成敗を決めるのは学生の発表の内容だけでなく、それに対してコメントをする批評家によるところが大きい。Pierreの後ろに席を取って、はじめから最後まで拝聴した。その内容を以下にまとめてみようと思う。
SAN FRANCISCO
第一弾はサンフランシスコのリサーチをした学生の発表から。彼はサンフランシスコの特徴を、人工的な建築的ランドスケープと地理的なランドスケープの特質との接点に着目した。起伏の激しい地形に覆いかぶさるグリッドの道路パターンから林立するスカイスクレーパーは、比較的低地部分に林立する。そのため高度の高い丘陵地帯と高さが拮抗し、濃霧をこうむるなど気候的な影響を受けやすい。スカイスクレーパーにまとわりつく濃霧をサンフランシスコ独自の特性とみなし、ここに新しいスカイスクレーパーのタイプを提案するというもの。
overviewing fog in SF
濃霧を見るためのメガホン型のペントハウス、シンボリックな形態などプレゼンテーション自体は美しかったが、サンフランシスコ独自の特質を注意深く読み取ったデザインというにはまだまだその余地を残していた。たとえば霧そのものにも地域によってさまざまなバリエーションがあり、自分がもし霧に取り組むなら、NYCやLONDONと比べてどう違うのかを比較検討したうえで霧の発生時間、濃度、成分などを切り口にした上でこの地域独自の霧のユニークネスを顕在化させるデザインを追及できるのではないかと思った。彼の最大の問題は、ビルのユニークさにこだわりすぎてそれを成り立たせる下部構造への配慮が足りなかったことだと思う。しかしそれは当の指導者H &de Mが事前に指導しておくべきだったのではないか。
だから発表後一番に発言したJacques Herzogのコメントはかなり大振りで”What’s for?(だからどうした)” といきなり懐疑を投げるのは、まるでゲストのコメントのようでもあり、奇異に思えた。学生に比較的親身になって弁護をするPierreにたいして、Jacquesはどうやら突き放す性分らしい。少なくともGSDでは不文律として、指導者が発表者を弁護し、その内容の可能性を別の角度から紹介して発展させる能力が問われるものなのだが。たしかにヨーロッパの建築家はコメントが概して厳しいようだ。僕が参加したTony Fretton のスタジオでもある友人は彼の日ごろの努力に関わらず「君のデザインは環境を汚染してしまうよ」と厳しい評価を受けていた。FOAのムサビもしかり。とはいえ、もしかしたら、Jacquesは事前に彼の発表内容をチェックしてなかったかもしれない。
とはいえ、彼の指摘そのものはたしかに的確で、ゲストからもスカイスクレーパーというどこにでも存在する建築タイプからサンフランシスコの独自性を引き出すアイディアには評価しつつ、それが新しいビルのアイディアとしては既存に流通する(H & de Mのような)形態以上の独自性がなく、ペントハウスをわざわざ作るという実現性についても疑問の声があがった。
http://www.wwwebport.com/citygates/sv/sv96big.gif
シリコンバレーのリサーチをした学生は低層低密度のシリコンバレーに高層高密度のオフィス付きパーキングビルを提案。シリコンバレーの立地条件として、地元スタンフォード大学との協働関係や、モータリゼーションによってもたらされたモール型ビルディングタイプを応用した郊外型地域計画などに当地のユニークさを紹介した。無線工学科F.Terman教授が自分の教え子を勧誘し、自身も支援してStanford Industrial Reserch Parkというアメリカ最初の科学開発研究センターを作ったのがシリコンバレーの始まりである。いわゆる「産業団地」の元祖で、これがひな型となって先端企業の建物が集結してしていった。(2002年バブル期直後の企業ランキングはスタンフォード大学のレポートを参照)
こうしたリサーチからの提言として、そこから今後の将来計画としてフランク・ロイド・ライトBroadacre City をモデルにして、モータリゼーションを生かし、立体自動車駐車場兼オフィスビルという、コンパクトで高層高密度なビルデザインを提案。自動車は地上レベルから建物外周を取り巻くスロープを上ってダイレクトに事務所の前までたどり着くことができるという。

Broadacre City

ライトの「ブロード・エーカーシティ」(1932)は自動車社会と自然が調和した低密度の郊外都市を提言したものである。それは自動車社会が到来することにより、郊外都市がアメリカ全土に展開されることをいち早く予見した理想的モデルでもあった。それをベースにシリコンバレーに高密度化した高層建築を挿入し、都市のスプロール化をつなぎとめるというのである。2000年頃バブル期に上昇したシリコンバレーの不動産価格は高止まりしており、いまだに生活物価は非常に高い。また中小企業の進出割合は77%と他の地域に比べて高く、彼らをテナントとして高層ビルを建てる説得力はあるかも知れない。業の買収合併が盛んな経済環境の中ではフレキシブルなプランをもつビル型が低層のビルよりも理に適っているかもしれない。
だが一方、バブル崩壊後、以前は経済を牽引したインド人ワーカーも潮が引くように本国に戻っており、バンガロールなどが、シリコンバレーなどより大きなインドのシリコンバレーとなっている。ソフトの製作も米国の会社はインドに発注している。建築図面・経済分析なども東欧などの安い人材へアウトソースしているというネガティブな要因もあることは見逃せない。

HP headquarter in Research park

ここでもJacquesは「君には何を言ったらいいのかわからないよ」とまたも厳しいコメント。他のアメリカの都市のように高層ビルをダウンタウンに建てて「マンハッタン化」するのに対し、なぜシリコンバレーはそうでないのか。少なくともそれに対する説明が彼には不足していた。シリコンバレーには他の都市のようなダウンタウンと呼べるものが存在しない。それを飛躍して、(発表者の彼自身がOMAにいた経験もあるのだが)どう見てもOMAやMVRDV風の立体駐車場ビルが果たしてだだっ広い平原に、アメーバのようにゆるく低層のビルがつらなる郊外都市シリコンバレーの発展型として可能性を持つのか疑問視された。
実は、シリコンバレーの企業の多くが、倉庫を利用して会社をはじめている。ゲートウェイやヒューレット・パッカードが納屋やガレージで創業したという逸話はその典型である。現在でははじめからオフィス向けでありながら、倉庫のような建築が建てられている。それは、シンプルな大空間をパーティションでいかようにも変えられるようにという要求である。あるときまでは、研究室が大きく、技術が完成したとなるとすぐ製造にかかり、すぐに大人数のサポートデスクが必要になり、次の週には技術を売って会社は解散・・・といったことが、一年ぐらいの間に起こるのがコンピュータの世界である。
Jacquesが明らかに期待していたのは街の特質を革命的に変えるコルビュジェのアーバニズムに追従した楽天的な計画でなく、だだっ広い平原に低層のビルが広がる地域がもつポテンシャルは何かということを期待していたのは明らかで、その都市が持続的に内在させてきた特質に接続できる建築タイプであり、そこに彼のモチベーションがあるように伺えた。
PARIS

paris avenue

その後、パリのリサーチをした二人の発表。そのうちの一人は以前にも紹介したこともある、パリの交差点のパターンを歴史的に考察。マンハッタンのようにグリッド状に区画された都市と違い、パリは放射状の交差点が都市の要所に点在している。その歴史的経緯をみることにより、郊外と都心の連続的な関係を模索するというもの。さまざまな交差点のパターンを類型化し、それらの歴史のなかでどう発展し、どういった亜種(または変異)を生み出し、そして絶滅していったかを生物進化論のように図示していく。そこでは、たとえばベルサイユ宮殿の庭園などを手がけた造園家ル・ノートルをはじめとするパリ郊外に展開された造園デザインにはすでに放射状の散策路のパターンが考案される。その強い軸性はたとえばパリのルーブル宮にも見られる。そしてその後にオースマンによるパリの再開発によって既存の街割に干渉しながら放射状のゲシュタルトを形成していく。こうして都心から郊外まで放射状の道路パターンが数珠状につながっていったという。
それはモータリゼーションの発展によって街区を孤島のように分立させていくことにもなり、そうした街区内に建てられる新しく建てられる建物の建ち方に大きな影響を与えていく。つまり対面する街路に並行し強い正面性(ファサード)をもち、内部に空洞つまり中庭をもつクラシカルな平面構成が支配的だったのに対し、街路のパターンとは無関係に敷地から自立した建築タイプが20世紀以降に多発したという。そこには視覚性の高い看板建築や高級ブランドが集まる。
また同時に放射状の交差点自体もその性格を変質する。たとえば凱旋門のように、モータリゼーション以前は人と人の交わる広場的機能をもつものが車によって歩行者と自動車の分離通行を導き、交差点を歩行者から遠ざける結果となる。残された中央部はオベリスクや凱旋門などを残してその象徴的意味を残していく。
このプレゼンテーターからはとくに今後のヴィジョンを提案するような内容はなく、その主張もパリ全域の交差点というよりも、ある特定のいくつかの交差点について考察したものだ。しかし、この提案はパリの特徴である街区パターンを交差点という視点から読み取り、都心と郊外との共通項をすくい取ったという意味で好評を得た。放射状の交差点はパリ独自の類型として、都市計画や造園の分野だけでなく、さまざま位相でもたびたび現れている。たとえば、フーコーの「パノプティコン/一望監視装置」のように。かつてOMAもそのパノプティコンを応用したように、そうした空間の認識の都市のなかでどう作用するのかを見届けることも出来ただろう。

gare de Lyon

特にパリからやって来た美術史家Georges Didi-Huberman(だったと思う)は、2つの提案をした。ひとつは「星座」について。パリは星座のようにそれぞれの街区に特質をもち、それららがぶどうの房のように街路によって結ばれている。そうした地理的な意味からそれらをつなぐ交差点の意味(連続性と不連続性)をさらに深く掘り下げることができるだろうとコメントする。
「星座」という詩的な言葉は即物的な状況の解釈以上の何か創造的なものを喚起する。それはH& de Mがしばしば求めるものなのだろう、このときもそれに、なるほどとばかりに強く反応を示す。
そしてもうひとつは「水の管理システム」の存在に着目することを指摘していた。郊外の水源から市街地への水道システム、そして雨水を屋根から排水する循環システムなど、水は建物の境界を示すと共に街区の形成に影響を少なからず及ぼしてきたという。たとえばオースマンの計画しかり、1950-60年台頃の市街の改修工事しかり、パリはそのたびに街区を再編成してきた。この結果浴室や台所などの衛生管理が飛躍的に改善されたと同時に、ある種のトップダウン式の官僚システムが個人の生活領域に侵入することに抵抗するシチュアシオニストのような運動を生み出す引き金となったという経緯をPiconから歴史講義をうけたこともある。彼らは機能主義者の都市論・都市計画を批判し、1950年代のフランスの巨視的な全体主義は不毛であるとして締めくくった・・・
そうした「水の流れ」を都市の構造として捉えると同時に、バシュラールが水詩的感覚による独自の精神分析的方法で 火や水という根源的な要素に対する思索を展開したように、よりメンタルな部分との関係にも目をむけ提言して見せることが求められた。このあたりは彼がH& deMの著書Natural Historyに寄稿したエッセイThe drapery of sidewalksにも関連してストリート脇の排水溝に流れ込むゴミ(都市の記憶)の意味を問い、その生々しいテクスチャーからH&deMの作品がもつユニークな素材感との関連、さらに彼らの都市への視点について示唆している。
ST. PETERSBURG

map

最後にサンクトペテルブルクのプレゼン。この発表は水を切り口にして都市の特質を表出し、その問題をえぐり出した上で解決法を詩的に表現して見せたことで、H& de Mからもっとも良い反応を受けた。サンクトペテルブルクに決定的な特異性を与えた二人の創設者、ピョートル大帝とソヴィエト時代のレーニンに着目。
北欧バルト海(地図参照)に面した入江の立地条件を活かし、ピョートルはアムステルダムを模して同心円状に運河を張り巡らす。これが市街地の骨格となる。また彼の技巧を凝らした「ロシアのベルサイユ宮殿」と呼ばれる彼のPeterhof庭園(写真参照)はこの都市の象徴的存在でもある。
そしてレーニンによるソヴィエト革命後、レニングラードと改名されたこの都市周縁部には工業地帯がリング状に取り囲み、さらにその外側に位置する別荘地を郊外住宅に転用する。産業都市として稼動したこの都市はそれ以後、現在に至るまでその工業排水そして生活廃水をバルト海に流し続け、藻が異常発生し生態系のバランスを破壊し、沿岸諸国から非難の対象とされているという。国境をこえた環境問題(関連記事)に対する対応は、ソヴィエト崩壊後のロシアがEUに加盟できる資質を問うものとして、西側諸国から注目されている。

water and petersburg

つまり水はこの都市を築く重要な役割を果たし、そしてソヴィエト崩壊後低迷するロシアの今後の命運を象徴するといっていい。この汚染された水質を改善すべく、この地域の生態系を文献調査したところ、ある特定の種類の貝が藻を食べることを発見。その生態系のメカニズムを応用し、ペテルスブルグの水質改善を行うことを提案。まずそのモデルとして現在OMA/AMOによる改修が決定されている国立エルミタージュ美術館に面するNEVA川に浮き床式のプールを提案する。(余談だがGSDでのREM/INABA氏のソヴィエトリサーチはエルミタージュなど、市場拡大を模索するロシアの今後の展開をみすえたものだろう。)
この浮き床プールは夏に公共プールとして、水を浄化し、霧を散布する。その形は美術館をはさんで対面する庭園の平面形から切り取られたもので、エルズワース・ケリーの作品のようなそのミニマムなくさび型の形態は歴史的なつながりを求めている。
ゲストからは最後の段階で突然ファンタスティックにプールをつくるのでなく、さらに市域全体に具体的な戦略を盛り込んでいくべきだったのではないかという批判が寄せられた。なるほどプールを(ある種の彫刻作品のように)メタフォリカルに表現するよりも、たとえばあるひとつの戦略が都市の隅々にいきわたることによって、都市のさまざまな場所にどんな状況が生まれうるのかを考えることもありえただろう。
これに対するJacquesのコメントはかなり思い切ったもので「このプロジェクトは水質を改善するラボラトリー(研究所)であると同時に 詩的にモニュメントとなることの可能性を示している。実際の機能をこえて何かをひろく伝える力をもつ、それが建築というものなんだ」といったことを熱弁して、そのプールの是非をめぐってゲストと激しくやりあった。どうも彼は発表された説明そのものだけでなく、むしろヴィジュアルがどんな創造力をかきたてるのかに反応する傾向があるのだろうか。それはどこか抽象的な美術作品を観る態度に極めて近いかもしれない。「無題」と題されたアートワークから何を読み取るか。こうした議論をとおして彼の建築への感性が見えてくる。
St.Petersburg
この発表会を通してJacquesの態度を集約できそうな彼の発言はこうだった「(建築家は)テロリストの目をもたなければいけない。テロリストは正確に街の情報をかぎわけ、敵をあざむいてするりと内部に侵入し、的確に最も効果的な標的をつかまえる。」

13年前
  1. テロリストの目とは、すなわち批評ということではなかろうか。実際の有効なシステムを考案するためのポテンシャルを与えるため、だからこそその反語として自身のプロジェクトを組み立てていく。そのシステムの問題点をむしろあえて見せ付ける。水の管理システムは果たして可能なのか?美しく飾られたモニュメントは逆にそれが目指す理想をむしろグロテスクなものとして突きつけるのかもしれない。
    建築があらわすものは、新しい言語ではなく、現実のグロテスクさを映す鏡に過ぎない。だからこそ効果的な標的を狙い撃ちすることに意味を見出す。
    そんな風に感じました。
    ただ、勢い表現に攻撃性、なにか敵意のようなものを感じてしまうのは、一方的すぎるような気がします。(これはちょっと言葉にできないんだけど。。。)

  2. 計画者や建築家がどのポイントを攻略し、そこにどんな方法で取り組み、どんな効果を得るかというストラテジーのことだね。たとえば911でテロリストがなぜフリーダムの偶像である「自由の女神」像でなく、商業のシンボルであるマンハッタンのワールドトレードセンターを攻撃したかという動機をふりかえってみるのは興味がもてる。
    海の上に孤立する自由の女神と、高層ビルのなかにそびえたWTC.いろいろな答えがあるとおもうけど、自由の女神であれば信仰にも似た情熱からすぐに同じ場所に同じ偶像が再建されるかもしれない。しかしWTCはいまだに再建の大義そのものが揺らいでいる。アメリカの大きな都市ならどこにもモニュメントのような高層ビルがあり、どれを攻撃されてもおかしくないという恐れが蔓延し、頂上の展望台が閉鎖されたこともあったね。それを避けるにはどの都市も区別がつかないよう特異性を消して全く同じ姿にしてしまうかだけど、それは全く不可能。どこにも必ず個別性をかぎわける糸口がある。
    建築が表すのが新しい言語でないかどうか、という真意がちょっとまだよくわからないけど、WTCが失われて初めてそれが持っていた意味が明らかにされたように、建築が場所のリアリティを明らかにすることがある。そういう意味ではそうともいえる。そうしたリアリティは同語反復的なものではなく、テクノロジー、プロセスと新しいリアリティを通して独自の表現を生むことは可能だと思う。さまざまな位相で関わるテクノロジーをどうオペレートして、ある特定の場の空間体験を可能にするのか、という問題がこのファイナルレヴューにも現れていた。今後も直面するひとつの課題だと思う。

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