Guy Nordenson / structure -in -frastructure

ギィ・ノーデルセンはNYCの構造家である。90年代末に独立して彼の事務所を開くまではOve ArupのNY事務所でディレクターを務め、スティーヴン・ホールとは20年前から協働関係にある。最近ではレンゾ・ピアノのメニル・コレクション美術館(ヒューストン)、リチャード・マイヤーのローマ教会(ローマ)、谷口吉生さんのMOMA(NYC)やSANAAのNew Museum of Contemporary Art (NYC)、WTCのタワー1/ SOM (NYC:後に辞退)などを手がけている。
DEtail of Soho Stair
講義で彼は工学的な技術を紹介する内容とは違い、構造技術が建築表現にもたらす美学、たとえばエンジニアサイドとのコラボレーションからどんな美的表現が生まれうるのかを語った。


講義ではそうした彼のスタンスのルーツをたどる事から始まった。もともと、彼はMITに入学し、文学を専攻していた。そこで同人誌などを通して文学と美術、そして科学との関係について関心をもつようになる。なかでもMITで教鞭をとっていた言語学者ノーム・チョムスキーに強く影響を受けたという。

strike in Menphis

その後ノーデルセンは土木エンジニアリングを修士課程で専攻することに決め、MITと関係の強いUCバークレーの大学院では構造エンジニアリングを学び78年に修了している。チョムスキーからの影響を具体的に聞くことはできなかったが、”I’m a man “というプラカードを掲げた黒人民権運動(メンフィス、1968)のグルーのデモンストレーションの報道写真が、ある美しさすらともなって社会に強く訴えかけるように、科学にもそれが可能ではないか、そんな出発点に立ったと聞く。今ではアメリカの覇権主義を強く批難する師にたいして、彼がWTCの再建の任を受けたがプロジェクトの体制に不信を抱いて辞退するのは因果だなと思う。
講義の中で彼が紹介した文献Structure in Art and in Scienceは彼の今日の構造エンジニアに対する姿勢の背景として興味深い。1965年に出版された寄稿集。当時の科学の先端に対する建築フロンティアの楽天的な期待感と 途方にくれた眩暈をうかがうことができる。科学を通してこれまで見ることの出来なかった微視的な世界に我々の世界を支える新しい物体相互の秩序を感じ取ったときの驚き。原子爆弾は悲劇であり、また同時に科学では微視的世界の最前線を示す象徴的な出来事でもあったらしい。その後の冷戦体制の中で、それを社会コミュニケーションに応用する可能性がここで模索されている。
当時とは比較にならないほどテクノロジーが高度化した今にしてみれば、当時のようにスケールもシステムもまったく次元が違う構造をメタファにして建築なり社会的な位相にもちこむのは素朴にもみえる。だがそれは科学の発展の程度がすこし違っているだけともいえるだろうか。
structure in microscale
バックミンスター・フラーは自前のテンセグリティ構造について、よく似た形態を持つ動物細胞や泡沫の構造との幾何学的なのもつ合理性にふれながらその機能的合理性を説いている。スミッソン夫妻は他の寄稿者とはやや異質な内容を扱い、歩行者のネットワークを再編した社会的コミュニティの再編を自身の建築プロジェクトを通して紹介した後に、日本からは槇文彦と大高正人のよく知られたターム”Group Form”論を紹介し、都市や建築を生命体にたとえ、細胞のように適度なスケールをもつ空間単位が独自性を保ちながら有機的に集合する空間組織の可能性について論じている。
この本の中でノーデルセンが紹介したのは、CYRIL STANLEY SMITHのエッセイSTRUCTURE, SUBSTRUCTURE, SUPERSTRUCTURE。スミスは電子顕微鏡を使って合金や石鹸の泡が分子レベルでどんな組織になっているのかを紹介している。そこには、均質な統一美とは違い、さまざまな方向から力を加えられたときに生まれる運動が起こす不均質な物質の織りなす美しさがはっきりと示されている。物質はじめは初歩的なパターンを通してモデル化されるが、人間の理解度が高まるにつれてより微妙で複雑な姿を現していく。この科学的な現象は美術への可能性としても言及され、たとえば文末には日本刀のつばが紹介されており、そのテクスチャーは年輪のように、繰り返し錬成された合金の痕跡となって美的表現に到達していることが示されている。

Japanese sword

日本刀の高度な製作過程とその結果うまれる美的表現との関係に言及した科学者として、ノーデルセンが紹介したCyril Stanley Smithは金属学者である。一般的には日本に投下された原子爆弾を開発したマンハッタン計画に参加したことでよく知られている。一方で戦後「金属研究所」を開設し、材料工学の第一人者として知られると共に、その研究によって考古学の遺跡の年代測定方法の向上などにも貢献している。ノーデルセンは彼の著書”From Art to Science”から抜粋し、日本刀の金属成分の構成、その製造過程を通してどうやって日本刀に浮き出る美しい模様が生まれるのかを論じている。(その製造法は以下を参照)こうして彼は材料工学を美術の分野に応用する道筋を立てていった。

Yale Rare Library

こうした素材の鉱物学的な表現は、たとえばイエール大学のベイネック貴重図書館(SOM)に見ることが出来る。リジットな格子型構造体にはめ込まれた厚さ33ミリの薄肉大理石は、自然光をろ過してやわらかい石模様を浮き立たせている。模様に微妙な表情を与えるために格子上にひさしが取り付き、時間の推移とともに微妙に変化していく。ヘルツォーク&ド・ムロンのチューリヒの教会計画案も同じ様に、大理石の表皮にキリストの偶像をエッチングして室内全体を包み、ろ過された光を通してその偶像を浮き立させる。

Yale rare library

構造家のノーデルセンにとって、とくにスティーヴン・ホールとの出会いは決定的な意味を持っていただろう。スティーヴン・ホールが持ち前とする、建物の表層ににじみ出るような錬金術師のような素材感はノーデルセンにとって科学的なはたらきが詩的に表現されたものだといえる。よくある話かもしれないが、彼の著作は多くは彼本人でなく同僚が代筆して書いたものとこちらアメリカではいわれるほど、スティーヴンは一般的なイメージ以上に直感的な感性をそなえた作家らしい。二人の直観と論理という協働関係が実を結んだ作品として最近作のMITの学生寮シモンズ・ホールをあげることができる。

MIT simmons hall

この建物はスポンジのように建築表面に大小の孔が開けられ、それらが室内や建物の向こうにある風景を見せる開口としなる。この孔をもつスクリーン壁自体が建物をささえる構造体でもある。このスクリーンも先のイエール大学の図書館と同様に格子状の構造体がスクリーンを構成するのだが、ここでは開口の位置、大きさが不均質なために構造体の算定も複雑になってくる。構造荷重に応じて部分的に構造体の寸法を大きくすれば一応解決できるが、それでは建築パーツの種類をむやみに増大し、コストも大きな負担となるばかりか、デザインそのものが崩れかねない。そこで彼が考案した方法は、構造寸法は変えることなく、構造解析によって判明した、構造荷重が特にかかる部位には格子状の開口部に補強パネルを貼ることである。
MIT Simmons Hall- construction
こうして彼はスレンダーな構造寸法を実現することが可能すると同時に、開口とパネルが織り成すランダムなパターンの表情を建物に与えた。そして、スティーブン・ホールからもらった立面図に構造荷重の分布を程度に応じて色を塗り分けていったのだが、それを見たスティーブン・ホールはその色のマッピングをとても気に入り、その荷重分布そのままにアルミパネルの建築表面を部位ごとにカラーリングすることにしたという。

detail

通常、建築は力の流れに応じて建築部位の寸法に変化を与え、結果として力の流れが外部に可視化されるのが常套手段だった。だが、ここでは建築自体は重力感を消し、色彩や光がデータのように重力もひとつのパラメータとして表示される。これは建築の空間に入ったときに感じるはずのヒエラルキーを消してくことにもなる。そうした空間の体験はスティーブン・ホールの建築を訪ねたときたびたび感じるものでもある。豊富なマテリアルを自在に操る才にうっとりする一方で、作品によっては散漫な印象を受けてしまうのは、どこかそうしたところにまだ取り組むべき余地があるのかもしれない。
たとえば、その技術的解決はテラーニリットリオ宮コンペ案(ローマ)と比べてみたらどうだろう。むしろこの二つは構造を建築表層のデザインの根拠を問う点で興味深い。色彩という記号に置き換えられ応力、そしてもう一方は亀裂という痕跡を残した応力。この案でテラーニは広場に対面する巨大な石のスクリーンを背後の建物から巨大なトラスで吊っている。
そのたたずまいは本来現れるべき建物の意味内容が背後で沈黙し、代わってムッソリーニの演説台をかかえた巨大なスクリーンが立ちはだかる。スクリーンには唯一、吊り下げられた部分から流れる応力線が石に刻まれ、それが石の割付のパターンにもなっている(とはいっても実際は鉄骨下地に石パネルをハリボテに貼ることになるだろうから、この応力パターンはフェイクともいえるかもしれないが)。スティーブン・ホールの学生寮がファッショ的などという話をしたいわけではない。むしろ表現とイデオロギーの関係は、いつもテクノロジーがそこで語られた限界をこえるとき、歴史化して別の次元に移行してしまう性格をもっていないだろうか。そこにヤワな倫理をすっとばしてしまう建築の問題をリアルに感じるときがないだろうか。

soho-stair

こうした痕跡そのものを消してしまうこともありうる。 たとえばAROと協働デザインしたSOHO(NYC)のガラスの階段ではガラス板自体が構造体として階段を宙に浮かせている。AROには以前スタジオの授業でも教えを受けたこともあり、レーザーカッターを駆使して見た事もないマテリアルを造る腕前は建築家の域を通り越して、ブルックリンの「包丁人味平」よろしく創作料理のシェフそのものだったが、彼らもスティーブン・ホールの事務所出身である。シェーカー教徒のコロニー(ボストン近郊)の螺旋階段の流れるような美しさを愛する彼は、階段を上下する人の動きそのものを美しく映しだす仕掛けとして、支持体をガラスにして存在を消してしまうことを思いつく。
ここでノーデルセンはいかにガラスの存在感を消すかに取り組み、ガラスに働く応力解析をした上でモックアップ(実寸模型)を作って構造的安定性と同時に視覚的な効果との微妙なバランスついて検証をしたという。ガラスの破断実験を通して示されたガラスの応力分布の解析写真のように、ガラスの階段に見えるはずの力の流れが見えないことで、逆に強くガラスに緊張感を感じ取ることが出来る。
soho stair -experiment
建築家と構造家のコラボレーションや、建築家がいかにエンジニアリングからインスパイアされることができるかという可能性について、これまでもいろいろな講師からその具体的に話を伺ってきた。ノーデルセンがユニークなのは、建築家の直観を建物に具現化していくうえで力学的な解決から直截的な構造表現を消していく一方で、建築に物質やオブジェクトとしての存在感を浮き彫りにしていく才能にあるといえるだろう。もし彼の言葉に従うとすれば、次のような彼の言葉はどうだろうか。いわく、ここ数年、名作とよばれるものは建築家とエンジニアの優れた協働関係からうまれている。たとえばル・コルビュジェとクセナキス、ゲーリーとヨルグ・シュライヒャー、伊東と佐々木・・・そしてメタファを純粋に表現すること」
核心にせまるメタファを生み出す創造力、それが今問われているのかもしれない。
“In my practice I work to build things and ideas. The work is always collaborative because that is how things get built. But there always need to be ideas to guide it, stars to set the course. The poet William Carlos Williams wrote “no ideas but in things” and it is true I think that close attention to reality is necessary for ideas to emerge. On site we argued to conclusions through the study of what was there, but also we needed ideas to organize things. Ideas and things are intermingled in time and space. That is what makes it all so difficult and challenging. It was after all the extreme and insane idealism of Mohammed Atta and his accomplices that destroyed the towers, and today we continue to suffer from the excesses of ideology. Clear observation, clear thinking and forceful deliberation is I believe our best defense and best way forward.”

13年前
  1. 近年、建築家と構造家のコラボはとても多いですね。
    構造の素晴らしさが認知され始め、ここまでが建築家の仕事、ここからが構造家、という境界が曖昧になり、どっちが建築しているのかがわからなくなりつつある。でもそれはいいことで、そもそも建築が成り立つには多くの人が携わるわけで、当然といえば当然でしょうか・・・
    今後も楽しみです。

  2. ピレスさんこんにちは。
    構造と建築のコラボレーションはコンピュータや通信手段の豊富化でますます活発になる気がします。その反面、これはGSDの友人Kei氏(既出)と最近話題にしたことですが、設計ソフトウェアの選択肢もま豊富になり、それぞれの長所短所をみたうえで、どんなソフトを使うかとかいろいろな問題もあるようです。もちろんこうしたソフトウェアの問題はコラボに限った話でなく、設計自体をどうするかという問題にもつながるのでしょうが。
    しかし共同作業には可能性を感じます。そのためには何より他人にない自分の特異性を見つけそれをとことん磨いていくことが大事なんでしょうね。

  3. なるほど、特異性。
    確かに、今トップで活躍されてる方々は、ここの一点だけは譲れない、というぎりぎりのところでせめぎあっているように見えます。
    どの世界でもそれは大事ですが、日本の教育はそこを潰していくシステムが成り立ってますからね。
    もっと、いい意味で「変な人」が活躍していってくれることで、日本の教育も変わるかもしれません、そう期待していますし、周囲の友人のそういうところを見つけてあげたいです。

  4. そういう意味でノーデルセンは非常にメタフィジックなセンスをもつ人だった気がします。論理的な整合性をたどりながら何か形を整えていくというよりも、メタファーがそれを跳躍して整合性を待ち受けているような。それがスティーヴン・ホールとのタッグマッチを良いものにしているとも言えるし、互いに感化されているといえるのかもしれない。逆に言えばそういう手続きをとらない人にはまったく彼に合わないかもしれない。彼は誰と協働するかということの重要さをちらりと言っていたわですが、それは相手を見抜き、どういうコラボレーションを組むかということでもあるでしょうね。

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