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Colubia_studio_presentation

長いようで短かった休暇も終わり、新学期fall semesterが始まった。このブログも再スタートする。
一年ぶりに日本に帰国したときは日本のあらゆるものが新鮮に映った。いろいろなところで散らばる知人を訪ねて、ホテル暮らしまがいの、あいかわらず根無し草の生活ぶりだった。旧知のこういう方やウェブを通して知ったこういう方といったいろいろな人にもお会いすることができた。日本人の将来の可能性をとても見直した一方で、書店に愛国的な本が山積みされた状況には閉口してしまった。どこの国でもそうだが、自分のアイデンティティがなんであるのかを模索しているとはいえ、耳障りよくメディアに味付けされて消費されている状況は不気味でもある。そんな話題も交えながら飲み交わして時間を埋め合わせていった。できるだけ多くの人に会おうとつとめたものの、残念ながら時間切れで会うことができない人もいた。

QUEENS, A graffiti

9月初めの最後の夏休み、ボストンにじっとするのも落ち着かず、バスでNYに出て、日本からU-Penに短期留学に来た友人に会う。
彼はNYに来るのは初めてということだったが、ちょっとコロンビア大学の建築学科を訪ねた。そしてその翌日、アメリカ中西部の町、Herzog & de Meuronの設計したWalker Art Centerのあるミネアポリスへ飛んだ。
コロンビアの教育はかつて学部長を務めたベルナール・チュミのカリスマ的な存在、そして最近ではMayaなどのデザインソフトウェアを駆使したデジタルデザインでよく知られる。建築メディアがそれを紹介しているのは衆知でもある。

Gehry LA Disney theater

ところで何をもって「コンピュータデザイン」というのかを定義するのはいまひとつはっきりしない。あたりまえのことだが、CADやデジタルツールを使えば即そのように言えるはずもなく、ただコンピュータによって恣意的な形態のバリエーションは増えるものの、それは建築家の描く最終的な形態が存在し、それをたどって行く手書きや模型で作りこんでいく従来の方法からそれほど極端に違うものではない。
たとえばGSDで教鞭を執るコスタス—この人の授業にはいささか悩まされるが、ともかく彼の著作(下写真)がもうすぐ出版される—がアルゴリズム建築の講義で言うように、そうした予定調和から逸脱した設計者の予測不可能な形を生み出してしまう設計プロセスのようなものがある。この場合、たとえばゲーリーのディズニー劇場(上写真)やビルバオ美術館はコンピューティング・デザインとはいえない。そうだすれば、デザインのプロセスをMELで創造的に操作することから生まれるそのアウトプットは、建築家の予測不能な領域にふみこむことになる。つまりコンピュータ・プログラミングによって、コンピュータとデザイナーの相補的なデザインプロセスを一気に推し進める可能性がある。またその一方で、どのように「建築」として成立させるのかということが関心を引く。

expressive Kostas's incoming book

偶然、その日は秋学期のスタジオの内容をそれぞれのスタジオを受け持つ講師や建築家がプロジェクターを背景に紹介をしていた。途中から会場に立ち寄った身分なので断定は避けたいが、ずっと何人かの講師を通して聞く内容は大きく二つの流れに分かれているようだった。一つは実際の敷地を前提にして今日的な社会的現象に取り組むというもので、NYのスタテン島にグッゲンハイム美術館を新築するというスタジオや、マンハッタンのイーストリバー流域を敷地にショッピングセンターを作るといったような、ハイカルチャーもサブカルもすべて飲み込むshoppingという社会的現象を建築よりも一回り大きな都市的スケールで考察するというもの。レムshoppingリサーチを下敷きにしたそのテーマは、建築形態そのもののよしあしでなく、それが生まれる状況の内在的構造を読み解くという問題定義としてはそれなりに興味をひく。しかし残念ながら、ただ社会現象を一般論的に解説して見せるだけでなく、それが選ばれた敷地におきかえると具体的にどういうところにどんな状況が生まれ、どういう可能性を講師が感じているのか、ほとんど説明がなかったので、どういうスタジオなのか、よく理解できなかった。
もうひとつはGSDではそう見られないデジタルデザインの流れで、こちらにはかなり関心を引いた。個別にスタンスの違いはあるのだが、Karl ChuHernan Diaz-Alonsoがそれにあたり、例えば後者はハリウッド映画にあるCG特撮によって作られた泡状の流体をモチーフにしてそれを建築のフォームに取り込むといったようなもの(この文面トップの写真参照。彼の最近作は下の写真2点)。大雑把に言ってデジタルツールを従来の設計の精度を高めるために使うよりもむしろ設計の方法そのものを換えることで建築のデザインのディシプリンから飛躍することが目論まれるというKarl的なアプローチもあれば、コンピュータを使って始めて描くことが可能になった形態をエモーショナルにつくりこんでいくHerman的なアプローチもあるということだろうか。

Herman's work at PS1 New York

コンピュータ(を使った)デザインはコンピュータを使った性質上、細部と全体がスケールレスでフラクタル的なデザインとなりやすい傾向をもつが、それでも何かコンピュータによってどの程度新しいデザインを可能としているのかは大きな個人差がある。
後者はともかく、前者では当然予測されることだが、たとえば、設計プロセス段階において種種のパラメータを操作していくことで設計者のイメージを超えた造形を生み出すことは実際このような実際はその結果のほとんどは建築になりえず、どこか最終的には意識的に「建築」にねじ込んで落とし込むための強い美意識なり、建築とは何かという枠組みがないとやりっぱなしで終わってしまう。
そのギャップをどこかの批評家の尻馬に乗ってポストヒューマニズムの空間というには作り手に対してあまりに表層的で失礼というもだが、その一方で、それを前者の批判主義的なスタジオの視線に戻してみれば、その空間がいったい何を意味するのかという鸚鵡返しに出くわす。

Detail

友人と飲んではたと出たことだが、美術家の平川典俊によると、資本主義というフィクションは、内実はその表層に見える制度的な正当性を通じて作られた植民地主義(内部による外部に対する搾取)であり、美術の世界と同様に表層に見える美学的風景の裏側に立ち入ることによって始めてその存在の本質を知ることができるという。
「存在の本質」とはなんなのか、つまりその語義に関する問題は僕には難しすぎるので脇に置いておいて、この「表層に見える美学的風景」に終始しているのが80年代後半以降、つまり消費社会の中での「建築」のむしろ与えられた「役割」だったといってもよいだろう。その社会的役割を全うしているという意味で、未だに大文字の建築もちゃんと存在しているし、実験室的な建築のバリエーションが増殖するのも、いわばハリウッドの映画がCG技術を駆使しながら増殖していくのと、ほぼ同根、と考えてもよいのかもしれない。個人的には建築はいったい社会的にどういう位置づけになるのか分かりかねる状況になっているけど、資本をイデオロギーという意味では建築ほどイデオロギー的なものもないのではないだろうか・・・。(続く)
Queens Court sq.

13年前
  1. 一見、自己増殖が可能に見えてしまうことに、コンピュータ造形と資本主義の共通点があるような気がする。というかコンピュータ造形は資本主義のパロディとしてとらえることもできるのかもしれない。例えば出来上がった造形に空間を見いだすためには適度のスケールをそこに当てはめることが必要ですよね。建築という倫理(といっていいのかな?)をそこに当てはめない場合にどうなっていくのか。。。その先に建築が見いだせるのか。果てしない自己増殖がその回答を持てる確率は0に近いんじゃないか。と思います。自己増殖するミラクルなシステムを求めているようにみえても実は、わたしたちは見失った(たとえば)「建築」というものの外形を少しでもつかもうとしている。そんな気がしてきます。実はわたしたちがほしがっているのは「建築」なんだという。。。

  2. 少しすれ違いになってしまうかもしれないけど・・・いかにもギリシア人らしく、ソクラテスばりに学生との問答が好きなコスタスが言っていたことだけど、楽器を造る職人は楽器をうまく弾くことができるかどうか。・・・と問いかけていた。歴史上、僕にはよい楽器を造れる音楽家は知らない。しかし楽器の使い方によってさまざまな音楽が生まれているのも事実である。楽器の使い方という意味で容易にパロディに転落することにもなりかねない。楽器の使い方を探る彼が期待するのは、そのような相補的な関係から生まれる建築の登場なのだと思う。様々な「倫理」が対立しながらランダムに入り組んだ状況のなかで、両者を介在し批判的にとらえるデザインプロセスの批判的試行といえるかもしれない。少なくとも目下のところ、フォームカッターを切り刻んで、はてしなく試作を繰り返す絨毯爆撃的なプロセスに比べればこれはまったく即身的かつ作業量/時間的な意味では特効薬的処方とはいえないのだから。

  3. そこにはやっぱり、時間軸というもうひとつの次元を加えることが重要視されるのでしょうね。建築物が未来にどういう音楽を奏でるのか、それを作家自身がすべて予測することはできません。ということは、時間軸を遡行して、いま、出来つつあるものを検証していくことがそれをカバーする大きな手段となりうる。それは自身のプロセスであり、拡大して「歴史」のなかにそれを探ることに意味を与えるものだと思います。例えば、実は倫理は乱立、対立していない。それは今を輪切りにしたなかでそう見えているだけと考えると、輪切りの連続体を滑らかにつないでいく、つまり見えなくなっているプロセスをたどることもできるのではないだろうか。

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