SWISS Oct 29 05 (Sat)

LUZERN STATION AND THEATER
すべてのスケジュールが終わり、金曜からバーゼルを離れる。他のメンバーはもうボストンに戻って次の作業に取り掛かっているだろうか。一人残ってスイスを2日だけ周ることにした。

KUNSTHAUS AARAU

まず汽車で寄ったのはAarau。山あいの小さな街。ここで先述の友人Ume氏が勧めてくれたH & de Mの小さな市立美術館を訪ねる。既存の美術館と図書館を結ぶ形で新しく美術館のパブリックスペースとギャラリースペースを増築した形になっている。美術館と図書館は管理上のためか屋内では結ばれていないが、新築部分の屋上庭園を通して結ばれている。屋上には芝でなくコケが植栽されて独特の質感を醸し出しているが、日本のような湿気のある所ならともかく、どうもここではコケの生え具合ももうひとつのようだ(そりゃ、はえへんって…あっけなくコケが完成2日後の公開日に枯れた目撃談を語ってくれたUme氏の名言を思い出す)。そこから大屋根が連なる旧市街が見える。

ROOF GARDEN
STAIR
ENTRANCE HALL

この屋上庭園とエントランスポーチを結ぶ螺旋階段は予想以上に面白い。既存の美術館にあったもともとあった(?)螺旋階段を写すかたちで同形の螺旋階段が新築棟のエントランスにセットされている。つまり新旧二つの階段が対面し、二つの建物の焦点にもなっている。
新しい螺旋階段は地下のライブラリー、エントランス階、屋上庭園を結び、らせんのステップを上下に進むと内と外の関係がねじれながら徐々に入れ替わる不思議な体験ができる。同形の螺旋階段が対面しているから、その効果はいっそう強い。
展示作品の質も筋が通ってみどころがある。グラフィックデザインが豊かというお国柄もあるせいか、スイスの優れたグラフィックや抽象絵画作品が充実している。たまたま企画展示されていた作家Bridget Rileyの作品はシンプルな要素が織り込まれて美しく描いているのに見とれてしまう。アルゴリズムの演習のヒントになりそうだと野暮なことを思いつき、また作品を見直す。
旧市街を歩き回った後、再び汽車に乗りルツェルンへ。ここを最後の宿泊地に決めたのは、単純に駅が湖に面しているから。
のどかな牧草地が広がる景色のなかで、いつのまにか眠ってしまっていた。気がつく頃には夕方の日差しの最終駅ルツェルンに着いていた。駅のアーチを抜けて湖に対面。対岸には湖の水平面に落ち込む谷のふもとに建物が集まった旧い街が見える。宿を探したものの、湖の見える宿がなかなか見つからず、粘った末に旧市街の街を見晴らせる宿をみつける。
NOUVEL THEATRE
散歩がてら、旧市街地を抜けてその対岸にあるジャン・ヌーヴェルの劇場に立ち寄る。カラトラヴァが外観を改修して街の顔を整えた駅の真横に並ぶ。つまりそれは、強力な政治力のもとで駅とまとめてあまりぱっとしない新市街地の一角の再開発をしたということなのか。
巨大な屋根のオーバーハングの下にはウッドデッキの広場が澄んだ湖に開放されている。澄んだ湖を背景に息抜きをしている大人たちに混じって、地元のスケボー少年たちも集まっている。
ここにはその強引に突き出した屋根に暴力的なものを期待していたが、実際はうまく街になじんでいる。建物とは不思議なものだ。どれだけ過激にふるまってもやがて街の流れに飲み込まれてしまう。どんな巨大な岩も時間の手に浸され、濁流の中の石ころのように流されていくように。

THE HOTEL

最後の晩餐ところを探していると、なぜかホテルのフロントのお姉さんがジャン・ヌーヴェルのホテルのレストランを提案する。商売敵を勧めるとは変わっている。その名はTHE HOTEL・・どんなホテルなんだろう・・・。なんとなく興味がそそり、その夜彼女が書いてくれた地図を頼りにそのホテルへ・・・。照明をしぼったフロントに聞くとバーとレストランが今日は開いているという。
芦屋のプチブルが通うバーに似てなくもないが、そこはやはり、はったりと本物の差は紙一重だろうか。対面する公園を片面ミラーガラスで反射させて屋内に「借景」を巧妙に取り込む仕掛け。いぶかしげにこちらを見る人の往来が映り込まれて、屋内に動きを感じさせてなかなか面白い。なれそめを楽しむ他の客たちのやり取りをちらちらと横目にさっと食事と酒を済ませておあいそ。にぎり寿司が餅のように固いここの食を勧める日本人はまずいない。スイスの誇る名産らしきサーモン君もこれでは浮かばれまい。
翌朝、チューリヒそしてボストンへ。天国のように晴れやかで暖かいスイスとは打って変わって、雲を抜けるとボストン空港は雪・・・雪が舞う輪郭のない空白の中を滑空する。「なんてこった」とあきらめのため息をつく声。アメリカ大陸に飛行機の車輪がヒットして、読みかけの本を黙って閉じた。また冬がやってきた・・・。

13年前
  1. さて、先日はどうもbostonでお世話になりました。でももう雪ですか。
    コメント、拝見しました。いつもながらに、丁寧に書かれていますね。
    長年ヨーロッパに住んで思うのは、ヨーロッパにおいてmuseumは公共=public=openな存在であり、このaarauの美術館においてもそれは見受けられることです。つまり、HdeMがやりたかったのは、美術館の後ろにあるレベルの異なる緑地を前に引き出すことで、それに美術館の屋根を利用したと考えたくなるほど。そして、螺旋階段を使って、前面道路レベルへ降りる。コケをやりたかったのは、芝よりももっと緑が深いことで、それとガラスの緑とを重ねようとしたのでしょうね。ただ、今となっては、緑のガラスだけですけど。
    たしかに、HdeMは大きなオフィスのわりにすごく全てのprojectsのクオリティが高いですね。たぶん、彼らはずるいので、ネタを小出しにしているのでしょう。あれもこれもではなく、1 projectで1つみたいに。しかも、基本から抑えていっているので、計画性に狂いは出てこないし、かつその1つのコンセプトで、建築の質を一気に上げられるだけの力を持っているし、すごいですね。
    とはいえ、やはりスイスではフォンデュでしょ。食べましたか?

  2. umeさん
    こちらこそ、オランダからボストンまで来ていただいて光栄ですよ。フォンデュはBasel_Studioの助手の方に勧められて早速試しましたよ。どちらかというと初めておいしい甘口のワインをバーゼルで口に出来たことのほうが感動しました。
    aarau美術館もそうだけど、あの美術館をどこで評価するかというと、他と差の見えにくいホワイトキューブのインテリアよりも明らかに内外の公共的スペースの表現にあるね。その指摘に同感で、あえて付け足すならその公共性とは何やねんと浮かんだ疑問符で、その屋上から直接屋内に入るエントランスは一切なく、漠とした苔の床面があり、それに対面する壁面に彼らの設計に加わった美術家のレミー・ツォークの文字彫刻 "ICH DAS BILD ICH SEME"というサインが庭を見下ろす。空にぱっくり口を開いた中庭に向かって引きずり込む傾斜下床面は水勾配という機能的理由もあろうが、ほとんど街に背を向けた方向に人を仕向けるあり方。これは庭自体を体験する場であっても、人を積極的に導く広場のような「アーバンデザイン」とは違うね。そのあたりにひとつのコンセプトの中に輻輳的なものがあるといえるのかもしれない。字義通りのものはパロディとしては面白いが、一般的な字義どおりなぞって終始するのも非創造的になりがちですね。コンセプトを揺さぶり続ける別の存在があって、それがコンセプトをいっそう浮き彫りにさせるのか。
    現在ボストンに帰国中の私は、その「ずるい(笑)」事務所の所長のdemandingな要求に応えられるかなとひやりとして次の準備をしてます。ここぞとばかり他ごとに熱中しすぎました。そばにどらえもんがいてほしい。

  3. 甘口のワインといえば、ハンガリーのブタペストからそう遠くない街で飲める赤ワインが美味しかったです。甘口赤ワイン?とちょっと最初はいぶかしげに思ったけど、なかなかいけるものでした。もしくは、有名やけどグルーワインかな。国によって、中に入れるものが多少変わるけど、暖かい赤ワインで、ナッツやレーズンが入っていることも。
    さて、何を持って公共というのか、たしかにそうですね。おっしゃるように、人を積極的に集めるというよりも、ちょっとしたくつろげる広場を提供しただけなのかもしれない。だけといっても、説得させるのにすごい労力が必要だったでしょうけど。明らかな親切とは違った彼ららしいすごくサラッとしたアイロニカルな手法。
    ただ彼らにしては、珍しくファサードも凝ったことをしていないし、大きな新旧対峙する2つの螺旋階段を除いては他に突出すべきところも見えないし。だからといって、手を抜いているわけでもない、彼らしい効率の良さでしょうね。
    アメリカにおける美術館の公共性みたいなものはどうなのでしょうね?自分はNY/boston付近しか見てないですけど、基本的には日本のそれに近い印象を受けましたけど。欧州だけがその文化的背景として異なるから?
    レポート、リサーチ、プレゼン、中間テスト、準備、、、たしかに、ドラえもんがいれば助かりそう。自分には、スタートレックに出てくるあらゆる言語の翻訳機能を移植して欲しいかな。

  4. アメリカの美術館は一般的にどうなのか、それほど行ってないのでわかりません。レンゾ・ピアノのバイエラー美術館(バーゼル)はテキサスのフォートワースにあるNasher美術館と非常によく似ていますしね。そういうよく似た場合もある。
    ただアメリカの多様な人種や社会層のなかで美術館に行く人は僕の経験上、それほど多様でもないと思います。そのアクセス事情は美術館のデザインにも反映されてるんじゃないでしょうか。MOMAのように金曜夕方になればわずかな寄付金のみですべての人が鑑賞できる場合もありますが、基本的に独立採算の私立のギャラリーやコレクターが運営しているものはなかなかそうも行かない。入館料やミュージアムショップ、イベント、会費等でお金を落とす必要があるでしょうね。
    アメリカではコレクターの収集量、質ともに並みの日本の美術館をはるかに上回るものがありますし、彼らがモダンアートのサポートをしていることは否定できない。かといって、だれでもアクセスできる公共的なスペースは決して好まれるものではないはずですね。
    そうしたせいか、ロケーションもヨーロッパのような都心から外れたところに立地する美術館も結構あって、そういう都市的なコンテクストとは別の要因が美術館を規定しているでしょうね。そういうものはヨーロッパ的なものとは違ったアメリカ的なものかもしれない。たとえば小学校を改装したPS1はマンハッタンからはずれたクイーンズにあるため、周りを高い塀で囲って、その内部に武装解除した来客のためのオープンなスペースをつくっている。印刷工場を改装したDIAは素敵だけど、マンハッタンから人里はなれた郊外まで1時間半かけていかなければいけない。ジャッドのマーファのアトリエはダラスから車で10時間の荒野の中・・・。そこで市街地ではまず得られない広い「オープンスペース」と内外に連続した最高の展示スペースが来館者を迎える。mihoミュージアムのような例外はあるとしても、まずこんな立地は日本ではありえないでしょう。
    その排他的なバイアスが公共的な空間を包みこむこんでいることは、その美術館の強烈なアイデンティティと裏腹になっている。公共性と排他性は互いにバランスをとりながら美術館の存在意義を戦略立てている。
    その排他性は、かつては都心にありながら隔離された街区にあったロフトがそのまま郊外にフロンティアを移したともいえるかもしれませんね。ジャッドのアトリエも、もともとはNYのソーホーにあったわけですし。今は長い間改装工事をしてるようですが、どうするつもりなのでしょうね。そこをずっと管理していたジャッドの助手が解雇されそうという話を聞いています。テキサスのファンデーションも周辺がかなり観光地化して当初の理想と違ってきた今、次のステップを迫られているのでしょう。
    ところでフランスの暴動事件、かなり派手に取り上げられてますが、実際はどうなんでしょうか?あれを見てるとヨーロッパでも社会的な葛藤がかなり進んで、社会的な共同性、そしてその中での多様性を体現するはずの公共の意味はかなり揺らいでいるようにも見えますね。スイスは例外に見えてくる。警告のサインや監視カメラも見当たらなかったし。
    そういえばMITのピーター・クックの講演、グラーツの美術館のメーキングストーリにしぼった話でした。彼も建物の表層から発信される視覚的情報の面白さをとても愉快に語っていたけど、公共的なものがゆるぎなく前提になっている意味ではヨーロッパ的典型を踏まえた発想なんでしょうか。モノが立ち上がっいく様子に立ち会ったことが嬉しくて仕方なかったらしく、その話に熱中して、形のわりにはアーキグラム的なものがよく見えなかったな。当人も予想できなかったものが出来て驚いたと素直に感想を言っていたので、一番そう思っているのは本人かもしれません(笑)。

  5. 余談だけど、
    でもたしかに多様な空間なら僕らはすでに手にしているし、少し前のようにそのまま歓迎するのも難しいですね。なぜならそれは、これまでのように権力が明確な形で存在し、相手を服従させるのでなく、逆に相手が求める欲求をかなえてみせることで、一人ひとりを効率よくコントロールする新しい権力空間として作動してもいる。情報ネットワークのように誰もがアクセス可能でそれだけ自由の範囲は広がる一方で、細部にいたるまで権力に情報を把握された形の環境管理システムがこれからも拡張していくことは間違いないね。これはどんな風に具体的な空間の新しい形をつくるのか、みておきたいと思う。
    まあそれはさておき、umeさん、先日の旅ではDIAも行かれたんですね。他にもPS1とかBAMには行かなかったんですか?あの電車から見える、延々つづくハドソン川の風景が結構好きです。コネチカットに比べればグレードが下がるとはいえ、高級住宅地の一角というのはなるほど、とうなずかせます。そういえば、DIAもあそこにホテルを計画中という話もあったような・・・またお手すきのときにでもご連絡ください。

  6. DIAにも、PS1にも行きました。DIAは非常に良かったです。列車では、ほとんどの人が西側の席に座り、そのハドソン川の風景を見ていました。偶然、日埜さんのabbsの方にもちょっと書きましたけど、すごく久しぶりに美術館を訪れて感動したかも。ただ、PS1は自分が行ったときは運悪く全体の1/5ぐらいしか見れませんでした。しかも、それほど興味ある作品も展示されておらず、ただ夕方に行けばタレルの作品が見れるようでした。今月のa+uにも掲載されているようですけど。BAMって?
    美術館のローケーションについてはまさに日本はアクセスのしやすさで決まっているところはあるでしょうね。直島は別でしょうけれども。金沢や青森の新しいmuseumについても、まだ写真でしか見たことはないですけれども、少なからず美術館の新しい可能性について、何らかの指標を示していそうですね。もちろん、多少のクリティークはあるとしても。
    欧州では、デュッセルドルフ郊外のMuseum Insel Hombroich、オランダのクローラーミューラー美術館、コペンハーゲン近郊のルイジアナ美術館等ようなアクセスにもかなり苦労するにもかかわらず人気の高いmuseumもよく見受けられますしね。
    先に公共性と書いたことの別の側面として、一般の人とアートや建築との距離もあると思います。これはヨーロッパでは驚くほど近い存在で、たとえば数年前にオランダのTVで、一般の人に、あなたならどの建築家に建築(住宅やったかな?)を建てて欲しいか?、というアンケートをしていた。ちょっと前のブルータスのようかな。もちろん人気投票ではあるけれども、それ以上に驚くべきは、普通に建築家の名前を挙げられるということ。もちろん、専門家ではないので、どれほどの選択肢があったのかあはわからないけれども。アートについても、美術館等で小さいときから触れる機会が多いせいか、いろいろとよく知っているし、興味がある人が多いように思う。その辺りでも、日本とは底辺が異なる気がするし、もちろんそれに現れてくる面(museum)もあり方として変わってくるのでしょうか。
    あと、なんとなくですけど、欧州のmuseumは広場に面しているケースが多く、日本や一部アメリカのそれは建物でボーダーをつくりその中にいろいろなものを用意しているような。

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