Black Out

Santa Cruz in the evening
船はずっと大波に揺れっぱなしで、ビールも紙コップからこぼれてしまった。空になったコップをゴミ箱に捨てると、夕闇の中に対岸の都会の灯りがぐんぐん近づいていた。1495年スペイン人がテネリフェ島に入植して名づけた「聖十字架」という名の街、Santa Cruzに上陸。
地元のごく一般的な人はグラン・カナリア島と隣のテネリフェ島の間を船で往来する(位置関係)。飛行機のチケットの入手方法を尋ねる僕に、ホテルのフロントの彼女もどうしてフェリーにしないのかと薦める。


Las Palmasから島西端の港街Agaeteまで約20kmを高速バスで40分、そこから高速フェリーに乗ってテネリフェ島の首都Santa Cruzまで40kmの海を1時間で渡る。飛行機なら空港間をたった20分で行けてしまうが、待ち合わせ時間や空港までのアクセスを考えるとあまり時間は変わらない。とはいっても交通費もほとんど同じとあっては、一体どういう理由で船を薦めるのかわからない。
View of Canarias from the sea, 1927
しかし話を聞いているうちに、海から対岸の街に上陸することに強く興味を感じるようになった。もともと、1930年頃に初めてこの島に空港が造られ、53年以後スペインが経済政策を転換し観光産業を本格的に乗り出すまで、すべての観光客は船でこの島にやってきた。図書館に貯蔵された当時のどの観光ガイドブックにも、船から見える島の姿が克明にモノクロームのペンで描かれている。水際まで落ち込んだ火山の岸壁とその合間に開かれた都市の美しいシルエット。それは飛行機から俯瞰するアクセスとはまったく違った、失われた体験に違いない(だが一方で最近、大西洋を渡ってやってくるクルーズ船はうなぎのぼりの人気でもある)。1927年のガイドによれば、汽船でハンブルグから7日、ロンドンから6日、マルセイユから5日、ジブラルタルからは3日…。その体験とはどんなものだったのか、すこしその香を嗅いでみたいという衝動に虜になってしまった。
ところが…このときまさに島は嵐がやってくる直前だった。壮大な垂直に切り立った岸壁に囲まれた港町を出航してすぐに、船は鉛色の波にもまれはじめた。旅客は無口になるが、それにもかかわらず、トラックの運転手たちはお構いなしにビールを片手に歓談を続けている。観光客らしき人物は、自分のほかに誰もいない…
calatrava
海辺からずっと坂に沿って扇形に街が拡がっている様子は、海岸線に沿って平地が延びる線形状の街、Las Palmasとはずいぶん違う。1936年ここからクーデターを蜂起し1975年の死までスペイン全土を掌握したフランコ将軍と犠牲者の記念碑を祭る海辺の広場が到着直前の海から目に飛び込む。その向こうにはカラトラヴァが設計した音楽ホール(写真は後日撮影)が巨大なモダン彫刻のようにライトアップされている。それは旧市街に面するインダストリアルな港湾地区をより効率のよい地区に移転して、ビジネスや観光開発に転用したい市の意向を物語っている。1953年以後、冷戦、つまり東西対立がエスカレートして以後、核ミサイルの飛距離が話題になり、このカナリア諸島はその地理的位置づけから心理的に「離島」、つまり緊張から解放された楽園としてドイツ、イギリス、北欧から人気を集めた。しかしそうした対立関係が解消したいま、西欧の果てだったこの場所の意味も大きく変わりつつある。かつてスペイン王が英仏との戦火を逃れて遷都し、そしてフランコが戦略を練ったこの地域は今EUから経済保護区として新しい段階に移りつつある。一連の開発はそれを見越した上での戦略だろう。

Franco

たしかに軍事作戦と都市計画は共通したところがかなりある。街はフランコ将軍と犠牲者の記念碑を中心に放射状に周囲の山に向かって拡がる。船を降りて記念碑を通り抜け、旧市街の広場から歩いてみると、コロニアル様式の建物が、ランダムに行きかう石畳の道に並ぶ。振り返れば港が建物の合間から見える。美しい街だなと感心する。その独裁者フランコの名にちなんだ大通りRambla del General Francoが1950年代より前の乱開発される以前の旧市街の輪郭を作り、それ以後に急激に開発された郊外エリアとの境界になっている。大通りにはヘンリー・ムーアの彫刻などが無造作に置かれていて、いまでは観光スポットのひとつになっている。向かう先のホテルはこの大通りにある(地図)。
しとしと降る雨の中、ようやくETHとGSDのメンバーが泊まるホテルに到着。その翌日からプレゼンテーションやレクチャー、H & de M の文化センター工事現場見学などの予定が組まれている。

Santa Cruz and memorial of Franco

ETHのメンバーとはバーゼル以来の1ヶ月ぶりの再会をひとまず祝おうということで、1階のバーでビールを手に取る。ところが外の天候は急転。大通りからのエントランスドアが爆風のような突風で開いてしまったかと思ったその瞬間、隣のロビーのエントランスひさしの天井がバリバリと音を立てて、めくれあがってしまった。日本でもたまにあることだが、内外の気圧差に境界面のボードが耐えられず吹き飛んでしまう、例のあれである。しかし街路樹もいよいよなぎ倒され、空から植木鉢が降ってくると、これはタダ事でないとそこにいた全員が沈黙。まもなくしてホテルも街も停電。実は僕が載っていた船は嵐の直前で、その後港も空港も閉鎖されたという。
ホテルマンの勧めでレストランに移り、ローソクで食事をとる。街全体が闇の中で、ローソクの火だけが明るい。遊んでばかりと誤解されそうだが、翌日発表を控えていた我々にとって停電は致命傷でもあり、その食事は開き直りでもあった。誰かがどこかこの街はキューバに似ているという。そのとおり。フランコの独裁を嫌って、当時多くの人がここからキューバをはじめ中南米に移っていったから。その亡命先は、スペインからカナリア諸島を通る海流の先にある。フランコが亡くなり、キューバを支援したソ連が崩壊した後、ここに戻る人の数は増えている。カナリア人のアイデンティティは揺れつづける。それでも今なお、その街の中心をフランコの名にちなんだ大通りが包囲しているのは奇妙な皮肉だろうか…8mileを聴きながら。

13年前